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第十五号
平成10年4月16日
●収蔵品紹介  ●第9回歴史探訪ツアー  
●調査ノート



収蔵品紹介
  『北陸東海御巡幸 (ほくりくとうかいごじゅんこう)
  石川県越中国富山船橋図
(いしかわけんえっちゅうのくにとやまふなはしのず
北陸東海御巡幸石川県越中国富山船橋図
 明治元年の王政復古(おうせいふっこ)により、天皇主権の近代国家が誕生しました。そこで天皇の権威と維新政府の威信を示すために、明治5年以降6回にわたって明治天皇の全国巡幸が行われました。北陸地方へは明治11年に訪れています。8月30日に東京を出発した天皇は、9月28日に越後側から越中入りし、泊(とまり)町・魚津(うおづ)でそれぞれ一泊し、30日に富山の行在所(あんざいしょ)(宿泊所)である中田清兵衛(なかだせいべえ)宅に到着しました。翌10月1日に神通川に架かる舟橋を板輿(いたこし)で渡りました。そのことを題材として描かれたのがこの錦絵です。色鮮やかな版画で、手前に行幸(ぎょうこう)行列とそれを眺める民衆を、後方に立山連峰と舟橋を配しています。天皇は馬車に乗っており姿は見えないようにしてあります。行列はすべて西洋式の洋服・馬車、掲げられる菊の紋章と日の丸。着物姿にまげを結っている民衆にしてみれば、すべてがもの珍しくさぞ驚いたことでしょう。天皇はその後今石動(いまいするぎ)に一泊して翌2日に越中を後にしました。ちなみに当時は越中国は石川県の一部であったので「石川県越中国」と書かれているのです(詳しくは「博物館だより第6号」参照)。

 富山を通るにあたっては北陸道に沿って進んでいます。舟橋を渡った天皇は、その後愛宕の大間知正助(おおまちしょうすけ)邸で休息を取り、そこの井戸水で沸かしたお茶を飲みました。その井戸が現在も残ります。今号の特集とあわせてご覧ください。

歴史探訪ツアー

歴史探訪ツアーの様子  富山市内の古い道を歴史的解説を聞きながら歩く『歴史探訪(れきしたんぼう)ツアー〜富山を歩く』、その第9回を去る3月28日に開催いたしました。今回は富山町を通る北陸道(ほくりくどう)を歩きました。ここでそのルートと見所をご紹介いたします。北陸道を通って、富山町を西から東へ抜けていきましょう。
 北陸道は越中を東西に横断する道で、近世には藩主の参勤交代や、庶民の伊勢参り・立山参詣などの人々の往来で賑わいました。 当時のイメージ図

愛宕町1
 愛宕(あたご)町はもとは愛宕村の一部でしたが、富山城下の拡大に伴って町立てとなりました。つまり北陸道はここで富山町に入るのです

旧神通川
 愛宕町を抜けると神通川が横たわっていました。−なぜ?神通川は以前は富山城の北側を蛇行して流れていたのです。松川はその名残です。この神通川はよく氾濫して大きな被害をもたらしました。愛宕地内にはその堤防の名残と思われる高低差が見られます。

越中富山船橋図
「越中富山船橋図」
 歌川広重
船橋 神通川を渡る2
 さて横たわる神通川を渡るために架かっていたのは舟橋(ふなはし)です。64艘の舟を鎖で繋ぎ、その上に板を敷いて橋にしたものです。現在でも常夜灯(じょうやとう)が2基残ります。左岸の常夜灯から右岸の常夜灯まで歩くと、ちょうど真ん中辺りが最も低くなっています。これは川底であった名残です。

鱒ずし3
 さて、“神通川”を渡った辺りは鱒(ます)ずし店が並びます。これは舟橋の維持管理を命じられていた船頭たちが、神通川で捕った魚を使って鮎・鮭・鱒ずしを作ったものと考えられます。その名残で、現在でも鱒ずし店が多く残るのです。

鉄炮町から旅篭町へ4
 木屋旅館
「中越商工便覧」(明治22年)より
 この辺りは富山藩の鉄炮者(てっぽうもの)の居屋敷(きょやしき)を置いたところから鉄炮町(てっぽうまち)と呼ばれ、東側は富山城の濠(ほり)に面していました。また、旅篭町(はたごまち)は宿屋を集めて作った町で、大正15年の大火で焼失するまで、長く旅館街として賑わいました。町内第一級の旅館であった木屋旅館(きやりょかん)には、多くの名士が宿泊しました。

西町辻から中央通りへ5
 現在のスクランブル交差点のみずほ銀行(旧富士銀行)辺りには、高札場(こうさつば)が設けられていました。そこを北に折れ中央通りへ入ります。中央通りは戦前までは西から順に中町・袋町・東四十物町(ひがしあいもんちょう)という町名でした。老舗の多い問屋街で、現在のような小売商店街の形になったのは戦後のことです。

砂町のだらだら坂から大橋へ6
 砂町に入る手前には下り坂があり、砂町のだらだら坂と呼ばれました。現在でもここは緩やかな下り勾配になっています。ここを過ぎるといたち川を渡ります。富山藩が架設した橋が架かっており、富山町最大の橋であったことから大橋(現雪見橋)と呼ばれました。別に表の橋とも呼ばれ、すぐ下流の橋を裏の橋と称しました。

当時の往来道
現在では裏道になっている箇所がほとんどですが、往時はこの道を人々が行き交い、同時に多くの情報や文化を富山へ伝え、また各所へ伝えて行ったのです。

調査ノート 楓橋の巻
 今回のルートを調査中、不思議な橋を発見しました。地図上で助作川に架かる「桐橋」という橋です。実際に当地へ行ってみたところ、コンクリート製の小さな橋でした。欄干(らんかん)を見たところ「楓橋」(かえでばし)と書かれています。おや?どうやら“桐”と“楓”の字がどこかで取り違えられたようです。こんなことがきっかけで、この橋の名の由来はなんだろうと調べてみました。
 諏訪(すわ)社<富山市諏訪川原>の由来縁起によると、社(やしろ)がある一帯は昔は楓の林が広がる川原で、「楓(もみじ)ヶ原」と呼ばれていたといいます(「楓」の字の古訓は「もみじ」なのです)。助作川(すけさくがわ)にかかる小さな橋は、こうした古い伝説に基づいて名付けられたものなのでしょうか。
 さて、「楓ヶ原」という言葉、思いがけず別の場所でも発見してしまいました。それは現在の愛宕の地名は愛宕権現の勧請(かんじょう)に付けられたもので、大昔は「楓ヶ原」と呼ばれていたらしいということなのです。また愛宕の乗光寺(じょうこうじ)に隣接する幼稚園の名は「紅葉ヶ丘(もみじがおか)幼稚園」です。そこで乗光寺の歴史を見てみますと、乗光寺は元禄(げんろく)5年に現在地に移転していますが、その時に「紅葉(もみじ)ヶ池」を埋め立て堂塔伽藍(どうとうがらん)を建立しているのです。つまりこの地の昔の呼称「楓(もみじ)ヶ原」が、池の名に名残として残っていたということではないでしょうか。 楓橋
 こうしてみると、遠い昔には諏訪川原(すわのがわら)から愛宕にかけては楓林が広がっていたのだろうかと想像してしまいます。もちろんこれらは伝説をもとにした仮説でしかありませんから、史実ではありません。しかし、古い地名にはなんらかの意味が含まれているものです。そういう意味では、古い地名を簡単に変更してしまう昨今の風潮は考えものです。あなたの住む町の名はどうして名付けられたのでしょうか、あなたが毎日渡る橋の名にはどういった言われがあるのでしょうか?思いがけず、面白いことが発見できるかもしれませんよ。


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←博物館だよりINDEXへ戻る (記:河西 奈津子)