←博物館だよりINDEXへ戻る

第三号
平成9年5月8日
収蔵品紹介  ●三大シンボル建築物



タイトル特集 特別展 街づくり−富山の近代化と博覧会−その2


収蔵品紹介
『富山市公会堂 映写機』

富山市公会堂 映写機
映写室に据えられた映写機

 昭和29年に富山産業大博覧会を契機に新築された富山市公会堂は、全国でも有数の設備を整えた施設でした。そんな公会堂に昭和31年6月11日、シネマ・スコープ映写設備が完成しました。工費は当時で700万円、ワイドスクリーンの横15メートル、縦6メートルという大掛かりなものでした。

 その時に設置されたのが、この映写機です。公会堂4階の映写室に2つ並んで据え付けられていました。2つあるのは片方のフィルムが終わったら、すぐに続きのフィルムに切り換えるためです。黒くて大きなもので、放熱のために天井に向かって管がのびていました。公会堂取り壊しにあたって、1台は個人に引き取られ、残りの1台は当館が収蔵することになりました。

 この映写設備を使って上映がなされましたが、付近の映画館からの苦情で、やむなく中止されました。しかし、この映写機を見ていると、当時目を輝かせてスクリーンに見入っていた人々の顔が目に浮かぶようです。





富山産業大博覧会
三大シンボル建築物

 昭和29年に開催された富山産業大博覧会!富山の三大博覧会の内では一番新しく、出かけた方も多いでしょう。今回はこの富山博にあたって、そのシンボルとして建てられ、なおかつ閉会後も富山市のシンボルとして市民に親しまれてきた三大建築物について見てみましょう。

富山市庁舎

 戦前、大手町にあった富山市庁舎は昭和20年の富山大空襲で焼失してしまいました。その後、県庁内での間借りや仮庁舎住まいが続きます。そうして建設が後回しになっていたところ、昭和29年に博覧会の開催を契機に市庁舎を新築することになりました。

 工事は博覧会の開会までに間に合うようになされ、開催中はその一階と二階の一部が「国土の産業館」として利用されました。中には全国39府県11市からの出品物が所狭しと並んでいました。

国土の産業館 前富山市庁舎
国土の産業館 前富山市庁舎

 博覧会終了後は引き続き内装外装工事を進め、同29年11月20日に竣工しました。鉄筋コンクリート造りで本館三階、別館四階、塔八階という建物でした。

 昭和31年8月1日には戦災11周年記念として塔上に「感謝と栄光」「敬愛と安靖」の双鐘が設置されました。毎日、朝夕晩と3回、市内に鳴り響いていました。

 最初は人も少なく、ガラガラだった庁舎も、組織の多元化にともなう職員の増加で狭くなってしまいました。屋上にプレハブを建てて人を配置するほどで、これは真夏には大変な暑さだったようです。そこで改築されることになり、それにともない平成2年に取り壊されました。

富山市公会堂

 戦後復興の中、大勢収容できる施設がなかったため、大きな催事や会合を開くことができませんでした。そこで富山博の開催を契機に公会堂を新設することになりました。

 公会堂は4月11日の博覧会開会式の会場として使用され、同17日に開場式が行われました。こけら落としには、地方初公演となる「宮中雅楽」が行われました。会期中はNHKのど自慢全国コンクールやファッションショウ、各種全国大会など多くの催し物が開かれました。

開場当時の公会堂
開場当時の公会堂

 博覧会終了後は引き続き内装外装工事を行い、同年11月20日に竣工しました。当時は全国有数の施設で、東京日比谷、大阪中之島の公会堂と並んで、日本三大公会堂と称されました。回り舞台やオーケストラボックス、音響板などを備えた立派なものでした。

 その後改修工事を経ながら、多くの式典や演奏会などに利用され市民の文化交流の拠点となりました。しかし、施設の老朽化などから、その役目を新築の富山市芸術文化ホールに渡し、今月取り壊されることになりました。平成9年3月の閉館にあたり、同月22・23の両日、さようなら富山市公会堂記念公演が催されました。そして、公会堂の最後を締めくくったのは31日に行われた富山高校吹奏楽部のスプリングコンサートで、最後の曲は「蛍の光」でした。

 ※当館では公会堂取り壊しにあたり、記録保存のため外観・内部の写真撮影を行いました。

富山城

 富山博の開催記念として残す恒久建築物として計画されました。城址に残る石垣の上に鉄筋コンクリートの櫓三階建てのものを造り、屋根を天守閣型とすることになりました。全国各地を視察して、その外観は慶長様式とすることが決定しました。尚この石垣は旧来天守閣があったのではなく、本丸鉄(くろがね)御門のあった場所です。設計にあたっては、石垣に建物の重みが直接かからないように注意が払われました。

 会期中は「美の殿堂」として富山県美術展覧会・加賀百万石展覧会・現代美術展覧会の三大展覧会が開催され、多くの人々が訪れました。博覧会会場内ではまさにシンボルとして、その美しい姿を輝かせていました。また天守閣からは市内や立山連峰が一望でき、大変な人気でした。

 博覧会終了後、同年11月17日に富山市立郷土博物館として開館しました。開館当時は科学・自然・美術・歴史と、まさに郷土の総合博物館でした。昭和59年科学・自然部門を科学文化センターへ、売薬部門を売薬資料館へ移し、平成元年に美術部門を市民プラザへ移しました。現在は歴史博物館として年に数回の展示を行っています。

開館当時の富山城
開館当時の富山城

 そして・・・
 当時の最新の技術を駆使して造られた建物たちは富山市民の誇りでした。その三大シンボルの内、市庁舎は既に取り壊され、公会堂は平成9年に取り壊されました。残るはこの富山城のみとなってしまいました。この館も老朽化が進み、今後の対応が早急に求められています。いずれ当館も取り壊されることになるでしょう。しかし、建物はなくなっても、その記憶は人々の胸に残るものです。戦災復興の、博覧会のシンボルとして、そして富山の街のシンボルとして!
富山の街のシンボル

▲UP

←博物館だよりINDEXへ戻る (記:河西奈津子)