富山城址の変遷
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2.昭和初期のお話

大正13年、富山市は都市計画施行都市の指定を受けました。これに合わせて設置された都市計画委員会において、城址を貫いて、メインストリートであった大手通りと富山駅を直線道路でつなぐという案が飛び出しました。この案に対して、大正15年に富山県史蹟名勝天然記念物調査会から「富山城址保存ニ関スル建議書」が出されています。その中で調査会は、次のように述べています。

昭和初期の堀と石垣


藩政時代ニ於ケル富山城ハ、(中略)面積実ニ約十一万坪ノ広大ナルモノナリキ。然ルニ(中略)外濠ハ埋メ立テラレ、二丸ノ溝濠モ次デ埋メ立テラレタリ。此結果、二丸、三丸ノ地域ハ全ク総曲輪ノ市街地ト化シ富山市役所ヲ始メ幾多ノ官公衙、商店軒ヲ並ベ、今ヤ商業繁華ナル街区トハナレリ。コハ文明ノ進歩、市勢ノ発展ノ然ラシムル所ニテ、之ガ為メニ史蹟ノ一部ノ破壊セラレタルコトハ公益上、経済上誠ニ已ムヲ得ザル所ナリト雖モ、今ヤ時勢ハ無理解ナル破壊的時代ヲ過ギテ史蹟ノ保存ニ目醒メツツアリ。(中略)富山市ノ生ミノ母トシテ、其ノ発達ノ歴史ヲ無言ニ而モ雄弁ニ物語ルコノ唯一無二ナル本丸、西丸ノ遺阯ト、其ノ周囲ノ濠溝壘壁トハ現在以上ノ破壊ニ今後絶対的ニ会ハシムベカラサルモノト信ズ


「富山城の遺構の一部が、市の発展のために破壊されたことは止むを得ないことである。しかし、これからは破壊の時代ではなく、史蹟保存の時代である。富山市発展の歴史を物語る唯一の遺構として、現在以上の破壊をすべきではないと信じる。」といっているのです。このほか、「都市計画においては、経済的・物理的・社会的方面だけではなく、精神的文明や史蹟の保存に関しても注意しなければならない。」とも言っています。城址保存に対する思いが、言葉を変えつつ何度も繰り返されているのです。

新道路想定図
富山駅と大手通りを直線で結ぶと、城址の中心を横切ります。

このように、城址は保存しなければならないという意見が多かったのか、結局新道路の建設案は採用されませんでした。もし、これが採用され実現していたなら、堀は埋め立てられ、石垣は撤去され、現在の城址公園はなかったことでしょう。


昭和5年、城址にあった県庁が火事のため全焼しました。再建するにあたっては、元の場所にという意見もありましたが、最終的には城址の北(現在地)に新築移転することに決定しました。城址はここに明治以来の県庁敷地としての役目を終えたのです。


さて、都市計画による破壊の危機を脱し、そして県庁敷地としての役目も終えた城址は、風致地区として、永く後世まで保存されることに決定しました。昭和8年に都市計画風致地区に指定され、現在に至ります。風致地区指定の理由は次の通りです。


富山城址一帯ハ、幽邃ニシテ自然ノ景趣ニ富ムモノ多ク、カツ富山市民ガ往昔ヲ偲ブ唯一ノ古跡タリ。然ルニ、市ノ発展ニ伴イ、ヤヤモスレハ由緒アル遺蹟ハ壊滅セラルル恐レアルヲモッテ、(中略)風致地区ニ指定シ、景趣ヲ維持保育セムトス


富山城址一帯は、物静かで奥深く、趣きがある。さらに、富山市民がいにしえを偲ぶことができる唯一の遺跡である。しかし、市の発展に伴って、由緒ある遺跡は破壊される恐れがあるため、風致地区に指定して保存する。


なお、富山城址は昭和14年に都市計画公園に指定され、その翌年整備の上、「富山公園」として開園しました。しかし同20年8月、空襲により富山市街は焦土と化し、城址にあった木々や建物も全て焼失してしまいました。


こんなこともありました その5

昭和11年、神通川廃川地(旧神通川の埋立地)を会場として、日満産業大博覧会が開催されました。その際、会場の一部として城址に子供用の遊具を揃えた「子供の国」が建設されました。以前から、風致地区に指定された城址を公園化するための調査が進められていました。そのため、この機会に児童用の運動器具などの設備を整えることができ、博覧会終了後も公園の施設として残すことができたのです。

堀に浮かぶボート
堀に浮かぶボート
現在の城址公園自由広場の南から、全日空ホテルの方向を見たものです。会期中、堀には児童用ボートが浮かべられました。


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