富山売薬は「先用(せんよう)後利(こうり)」という商売方法をとり、全国に広まったことはよく知られているところですが、詳しい実態は知られていないこともあり、まだ不明な点も多くあります。 よくある質問や、観覧された方のご意見から、富山売薬についてもう少し詳しい内容をご紹介します。
江戸時代に一番有名だった薬が「反魂丹(はんごんたん)」でした。岡山の万代常閑という医者から、富山に伝えられたとされています。(その伝わり方には様々な説があります。)よって江戸時代は売薬人のことを「反魂丹売り」「反魂丹商売者」と呼ぶほどでした。 この「反魂丹」は、江戸期は様々な効き目のある万能薬であったようです。現在は江戸期のそれとは処方内容も異なり、効能も違う薬になっています。
売薬人ひとりひとり、自分の行き先、つまり商売範囲が決まっています。この商売範囲を示すものが「懸場帳(かけばちょう)」(お客さまの情報)です。 江戸期の富山の売薬人は、春と秋の年2回(または1回)商売に出掛け、この帳面に書かれた場所を回り、商売が終われば富山へ必ず帰っていました。 現在は様々な形態で行われており、富山と行き来することがない人もいます。
富山県全域はもちろん、石川でも、江戸期から売薬の商売をやっています。 また他の地域では大和売薬(奈良)、甲賀売薬・日野売薬(滋賀)、伊佐売薬(山口)、田代売薬・鹿島売薬(佐賀)などがあります。 その中でも富山の売薬は、商売範囲が一番広く、長く続けて商売をしているので、よく知られているようです。
少なくとも江戸時代の文政年間(1818〜29)頃には、北海道の松前藩内で商売が始められていたという記録があります。安政年間(1854〜59)には、松前藩以外での蝦夷地で新しく売薬を始めたいという願書も出ています。 また、商売先の範囲によって全国を組という単位で区切り、この組の中で協力する体制になっていました。越中組・関東組・五畿内組など、江戸時代末期には22組作られています。北海道はこの組で言うと、青森・岩手とともに、「南部組」に含まれます。
富山では、行商だけでなく、製薬も盛んに行われていました。さらに関連産業(包装、製紙、木工、金工、焼物、印刷、薬種商、運搬業など)を含む一大産業でした。それは現代の富山にもつながっているのです。