安田城跡 歴史の広場
平成28年度 歴史講座開催報告
説話と信仰の舞台−婦負
今年度の歴史講座は、『説話と信仰の舞台−婦負(ねい)』をメインテーマとして、2回にわたり多くの説話や信仰の舞台となった古代・中世の婦負について探りました。
講師は木本秀樹氏(越中史壇会副会長)です。

2. 「婦負の神々と古代・中世社会」 
2回目の講座は、10月27日(木曜日)に開催しました。以下、おもな内容を記載します。(※1回目の講座内容はこちら「メヒからネイへ−婦負郡の成立」)

『延喜式』に記載された式内社
『延喜式』(延喜5年(905年)に編纂開始、延長5年(927年)に完成)には、3,132座の神々が記載されている。
   
( ) 越中国には、大社が1座、小社が33座の計34座あり、大社は射水(いみず)郡に存在する。「出雲本」(写本)では射水神社が大社であったと思われるが、国府の政治勢力の影響を受けて気多(けた)神社(高岡市)に変わったと考えられる。
   
( ) 婦負郡には式内社が7座あり、姉倉比売(あねくらひめ)神社が筆頭に挙げられており、鵜坂(うさか)神社が末尾に記載される。この鵜坂神社について、以下、詳しく説明する。
 
平安時代前期の婦負郡の神階奉授(しんかいほうじゅ)と越中大地震
( ) 『続日本後紀』『日本三代実録(さんだいじつろく)』などの史料によると、鵜坂神の神階は、845年から862年にかけて3階昇っている(従五位上(じゅごいじょう)従四位上(じゅしいじょう))。そして889年には一気に3階(従四位上→従三位(じゅさんみ))昇っており、他の神々と比較すると昇位(しょうい)が顕著である。
こうした神階奉授の背景には、越中・越後の大地震(863年)をはじめとしたこの時期の度重なる災害があり、天人相関(てんじんそうかん)思想(祥瑞災異(しょうずいさいい)思想)から、神々に位を授けて敬うことで怒りを(しず)め、災害を回避しようとしたと考えられる。また、同時にそれは神々を信奉する在地勢力への配慮でもあり、位を授けるにあたっては郡のバランスも考慮されていたと思われる。
 
平安後期・中世前期の婦負郡の神々と荘園
( ) 朝野群載(ちょうやぐんさい)』には、天皇の身体の平安を占う儀式に関する神祗官(じんぎかん)から鵜坂神社への奏上(そうじょう)の記載があり、中央とのパイプが結ばれていることが分かる。
   
鵜坂神社で行われていたユーモラスな祭礼(※榊で女性の尻を打つ。農業生産と結び付いた祭礼か。)も有名だったらしく、『俊頼無名抄(としよりむみょうしょう)』『八雲御抄(やくもみしょう)』には、それを題材とした和歌がみられる。
   
( ) 大同類聚方(だいどうるいじゅほう)』(医学書)には、鵜坂神社が製薬にも関わっていたと推測できる記事があり、霊験あらたかな神仏と薬の効能を結び付けて考えていたことが分かる。
   
( ) 伊勢神宮の所領目録である『神鳳鈔(じんぽうしょう)』には、越中国の所領として「鵜坂御厨(みくりや)」が掲載されている。鵜坂御厨は宮河荘(みやかわのしょう)にあったと推測しており、鵜坂神社は伊勢神宮からこの地の管理を任されていたのではないかと考えられる。
 
婦負郡・新川(にいかわ)郡の郡堺
様々な史料から、戦国時代までは熊野川が婦負郡と新川郡の境界であったと考えられる。宮河荘が現在の神通川(じんづうがわ)左岸から右岸までの広いエリアに鵜坂神社が勢力を伸ばしていたと考えてよい。
 
中世前期の長沢(ながさわ)
( ) 西大寺(さいだいじ)諸国末寺帳』(奈良市西大寺)には、越中国の末寺(まつじ)として長沢(がさわ)弘正院(こうしょういん)曽根(そね)禅興(ぜんこう)寺、黒河の宝薗(ほうえん)寺等が記載されている。越中国衙(こくが)(高岡)から越中守護所(しゅごじょ)(放生津(ほうじょうづ))を経由して長沢に至るまでの道のりには、この3つの末寺が存在する。末寺の設定は、当時の政治勢力と深い関わりがあり、例えば弘正院の場合、長沢氏(源頼光(みなもとのよりみつ)の子孫で長沢に土着)の存在があった。長沢は、飛騨方面への交通の要衝としても重要な地であったと考えられる。


今年度の歴史講座では、木本秀樹先生に古代・中世の婦負の姿を深く掘り下げていただきました。

婦負に関する史料は決して多いとはいえないもの、わずかな情報を繋ぎ合わせていくと、当時この地が政治的に重要な地であったことが読み取れるとのことでした。婦負には、まだまだ面白い歴史が隠されているようです。