安田城跡 歴史の広場
平成28年度 歴史講座開催報告
説話と信仰の舞台−婦負
今年度の歴史講座は、『説話と信仰の舞台−婦負(ねい)』(2回シリーズ)と題して、安田城が所在する旧婦負郡の歴史を深く掘り下げる内容となっています。

講師は、木本秀樹氏(越中史壇会副会長)です。
講師 木本氏

1. 「メヒからネヒへ−婦負郡の成立」 
1回目の講座は、9月15日(木曜日)に開催しました。以下、おもな内容を記載します。
越中国婦負郡の成立
( ) 古代の郡は、大、上、中、下、小の5つのランクに分かれており、婦負郡は『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』に10郷(高野(たかの)小子(ちいさこ)大山(おおやま)菅田(すがた)日理(わたり)、川合、大乗(おおのり)、高嶋、岡本、余戸(あまるべ))が掲載されているので「中郡」クラスとなる。
   
越中国には全国で最も多くの東大寺領荘園が存在したが、8世紀の史料には婦負郡を見出すことができない。これは、当地の開発が史跡王塚(おおづか)千坊山(せんぼうやま)遺跡群(弥生時代後期から古墳時代前期)の時代から始まっていることから考えて、古くから公領(こうりょう)が根付いて安定し、他に入る余地がなかったとも考えられる。
   
( ) 婦負郡は、大宝令(たいほうりょう)(701年制定)以前から存在したと考えており、今後、裏づけとなる木簡(もっかん)等の考古資料の出土に期待したい。
 
婦負郡関係木簡・墨書土器
越中国関係の文字資料は、8世紀の宮都にみられる。
   
( ) 奈良市西隆寺(さいりゅうじ)跡では、天平神護(じんご)三年(769)に婦負郡川合郷から米五斗が送られたことを記す荷札木簡が出土した。これは寺の造営にあたり食糧米が貢進(こうしん)されたことを示す。川合郷の位置は、神通川と井田川の合流点(有沢近隣)、あるいは井田川と山田川の分岐点(長沢近隣)と推測され、ここから米が運ばれた。陸路のみならず、婦負郡の河川交通の利便性が分かる。
   
奈良市平城宮跡では、「越中國□□□[婦カ]」と記した下級官人の勤務評定等に関する木簡の削屑や、「越中國婦負郡大□」と記した墨書土器が出土しており、婦負郡に関係する人物が出仕していた可能性がある。
 
婦負郡の地名
( ) 小子郷(ちいさこごう)は、『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』の郷名としては、婦負郡が全国唯一のものである。『日本書紀』にちなむ地名と考えており、当地が古くから繁栄した地であることを示唆している。
   
( ) 日理郷(わたりごう)の「日」は、岸から岸へ渡ることを意味しており、渡河点(とかてん)に位置していたと考える。古代の越中では川や海岸線近くに駅家(うまや)があり、河川交通の果たした役割は大きかった。
   
( ) 余部郷(あまるべごう)は、全国で確認される郷名で、人口の少ない地や山谷険しい地に設定された。婦負でも、こうした古代の行政区画のあり方が確認できる。
   
( ) 『万葉集』の大伴宿祢家持の歌に、婦負(売比(めひ))川と鵜坂川(うさかがわ)が出てくる。川の名称が郡名と同じであることは、この川が同郡を代表するものであり、和歌に詠むことが在地勢力に対する配慮であったと考えられる。
 
「婦負」の呼称
( ) 大宝令の註釈書『古記』には姪のことを「売比(メヒ)」とよみ、本居宣長(もとおりのりなが)の『古事記伝』には「禰比(ねひ)は、後の(なまり)にて、めひなるべし」とある。これが正しいと考える。
   
最初は「メヒ」であったが、その後「メヒ」「ネヒ」の両方を使うようになり、最終的に「ネヒ」に落ち着いたのではないか。
   
今回の講座では、史料や考古資料を通して、河川交通を背景に繁栄した婦負の姿を知ることができました。また、婦負郡の地名からは、当時の行政のあり方など様々なことが読み取れることが分かりました。