西ノ丸の発掘
戦国時代の検出遺構概要
(2003年度調査)

城址公園の西側、江戸期に「西の丸」と呼ばれていた場所は、戦国期は二番目に重要な郭「二の丸」として機能していたとみられます。ここからは、戦国期の城内の生活を知るさまざまな遺構や出土品の発見がありました。

地下1.2mほどを掘り進むと、高温で赤黒く焼けた地面が現れました。直径1mほどの範囲が1000度を越える熱で変色していました。この周辺からは、鉄滓、ふいご(送風装置)の部品などが出土したことから、鉄の刃物を製作した鍛冶工房跡であることがわかりました。高温で焼けた炉内には熱した木炭を置き、鉄の延板を入れて熱した後取り出し、鉄槌で叩いて成形を行う。これを鍛造といい、丈夫な刃物を造る伝統的な技法です。鍛造の際に四方に飛び散った鍛造剥片という数ミリの鉄板も炉周辺から多く出土しました。

また、刃物を研ぎ上げるのに使用した砥石や「きらら」と呼ばれる金雲母も同時に出土しました。きららは砕いて刃物の表面を鏡面のように仕上げるのに用いるものです。

これらのことからこの工房では刃物の製造から完成まで一環した作業を行っていたことが分かります。発掘で製品は出ていませんが、戦闘に用いる刀や槍等の武器を製造したものと推定されます。それが城内で行われたことは、戦に備えた軍事的緊張状態があったことを意味すると考えられます。

一方、鍛冶工房の直下からは建物の土間(土で固めた床)が検出され、その上に茶臼が残されていました。茶臼とは茶葉を挽いて粉にする道具で、信長や秀吉など戦国武将の多くが茶に親んだことはよく知られるところですが、富山城の武将達も戦の間に風流を嗜んでいたことが茶臼の出土によって裏付けられます。県内でもいくつか戦国期茶臼の出土例があります。それらはいずれも城か城下町からの出土で、城主や有力武将が所有していたとみられます。

この茶臼は強い火を受けて真っ二つに割れており、建物の床には焼けた木片が多量に認められました。このことは城内が戦に巻き込まれて炎上した事実を物語っています。
西の丸の小鍛冶跡と茶臼の出土
西の丸の小鍛冶跡と茶臼の出土
茶臼(下臼)
茶臼(下臼)

これらの知見から、茶という風流の世界を満喫していた城の武将達は、戦闘で焼討ちに遭い、その戦の後二の丸を整地して武器製造工房を作って戦に備えた、という過程が復元されます。

戦国期、富山城内に及んだ戦の記録には、元亀3(1572)年の上杉による一向一揆勢の攻略、あるいはその翌年の城兵反乱等がありますが、現在のところ年代を特定することは困難です。
(古川)