三ノ丸の発掘
外堀の発掘(2014年度調査)
慶長期富山城外堀の発見
 
総曲輪レガートスクエア整備およびユウタウン総曲輪建設に伴う発掘調査を行い、三ノ丸の南辺の外堀を確認しました。
この外堀は、二代加賀藩主前田利長が慶長10(1605)年に整備した慶長期富山城の外堀を初代富山藩主前田利次が寛文元(1661)年以降に改修(拡張)した堀であることが分かりました。
 
総曲輪レガートスクエア地区(第1期)の調査(平成26年10月から平成27年1月)
大手門の西約100mの位置で発掘調査を行いました。その結果、外堀の構造が明らかになりました。
三ノ丸外堀断面合成図
外堀堀底の北半分(幅約8m)は、南半分より約1m深くなっています(図1の水色部分)。その深い箇所から出土する遺物の中には、17世紀初頭(1600年から1620年代)に北陸地方で流通し始める、胎土目積・砂目積の初期唐津が一定量あります。出土遺物の年代が慶長期富山城を整備した時期(1605年)と一致することから、この部分が位置の不明であった慶長期富山城の外堀と考えられます。慶長期外堀の堀幅は復元すると、約18mであったと考えられます。堀の深さは、現地表面から約4.9mです。堀の主軸方向は、N-78°-Eです。
藩政期富山城外堀は慶長期の外堀を改修し、南側を広げていることが確認できます(図1の黄色部分)。これは、富山城の改修について幕府が許可したことが記された万治4(1661)年の『江戸幕府老中連署奉書』の中にある「惣構(そうがまえ)東西南三ヶ所(ほり)(せまき)()付而(ついて)(ひろげ)(そうろう)(こと)」のことを指していると考えられます。
この改修により堀幅が南に広がっており、調査区の東で約24m、西で約28mあり、下の写真のように西に向かって広くなっていました。このことは堀の南肩の主軸方向はN-84°-Eになっていることからも分かります。堀幅が大手門から西に向かって広くなることは、江戸時代の絵図「万治年間富山旧市街図」にも描かれており、それが発掘調査で証明されました。藩政期外堀の深さは現地表面から約4.0mです。
絵図に描かれている土塁は削平を受けており、残存していませんでした。
堀の北法面の勾配は約35度から40度でした。これは平成23年度西ノ丸北西の内堀で確認した角度とほぼ同様の勾配でした。
慶長期富山城外堀と寛文期改修範囲(上が北)
堀からは、二ノ丸二階櫓御門の石垣石材、手水鉢・六角型燈籠などの庭園用石造物、明治時代の売薬行商鑑札なども出土しています。
(堀内)
 
総曲輪西地区市街地再開発事業地の調査(平成26年11月から平成27年2月)
調査区は大手門のすぐ東側にあたります。調査では、外堀とその北側にあった土塁の基底部土塁を確認し、土塁の法面から堀底にかけての様子がわかりました。
堀の深さは現地表面から約5mです。法面勾配は約40度で、旧総曲輪小学校跡地のものとほぼ同じ構造です。ここでは、法面が崩落しないように、法面の途中を平らにして、10cmから20cm大の礫を約40cmの厚さで敷いています。(図3)
土塁基底部は、高さ1.75m、幅3.7mが残っていました。土塁が崩落しないよう砂や礫を混ぜて土を固める作業を何度も繰り返す「版築はんちく」という手法で築かれていました。土塁本来の大きさは、高さ4.5m、基底部の幅10m以上の規模が推定されます。
この調査では、外堀と土塁基底部の構造を確認し、絵図(図2)のとおり外堀の北側に土塁があったことが裏付けられました。
(細辻)
総曲輪西地区外堀検出状況(西から)
総曲輪西地区外堀検出状況(西から)
土塁基底部から外堀法面の堆積(東から)
土塁基底部から外堀法面の堆積(東から)
図3 総曲輪西地区市街地再開発事業地区の外堀構造模式図
図3 総曲輪西地区市街地再開発事業地区の外堀構造模式図