本丸の発掘

本丸御殿跡付近出土の踏み石
(2009年度調査)

平成22年3月に行った本丸北部(佐藤記念美術館の南側)の発掘調査では、幕末の井戸跡が見つかっていました。その後、その地点の南西約8mの地点において、平らな石が確認されました。平成23年1月この石を取り上げ、調査を進めていたところ、新たな事実が明らかになってきました。

石の概要
この石は花崗岩の自然石です。角が丸く、河川の転石とみられます。表面は一部錆色さびいろに変色しており、この特徴は河川の石であることを示します。石垣の花崗岩(主に早月川産)とは特徴が異なり、結晶が細かい石材です。河川調査の結果、県東部の河川には同じ性質の花崗岩はほとんど認められないことから、それ以外の地域で産出した花崗岩と推定されます。
全体は、平らな板状で、加工の跡はありません。上面は平坦な面になっています。大きさは、長軸170cm、短軸110cm、高さ35cmです。
発掘時の出土状況
発掘時の出土状況
 
発掘された状況
地表下約1mの江戸時代層から、表面が水平な状態で発見されました。石のすぐ上まで明治以降の掘削が及んでおり、かろうじて残っていたものです。
石は、整地した層を約25cm掘り込み、石を水平に置いた後、埋め戻されていました。当時の地表面から約10cmから20cm上に出ていたようすが復元されます。これらの状況から、江戸時代に使われていた状態のまま埋まったものとみられます。
石材の実測図
石材の実測図
 
踏み石とは
城内におけるこのような形の石は、石垣石材には見当たらず、庭園や御殿の建物に付随して置かれた踏み石とみられます。踏み石には、建物縁側に据えられた、脱いだ履物を置くための一段高くなった沓脱石くつぬぎいし、沓脱石から外へ向かう2石目以後の飛び石があります。沓脱石は地表から約30cm以上の高さがあり、飛び石は地表から5cmから20cmとなるよう埋められています(豪農の館内山邸の例)。 
富山城の石の場合、発掘の結果15cm程度地表に露出していたことが推定され、沓脱石としてはちょっと低いようです。

内山邸(富山市宮尾)の沓脱石・飛び石
内山邸(富山市宮尾)の沓脱石・飛び石
石の位置を復元すると
本丸には、藩主の住んだ書院造の御殿がありました。富山藩期の御殿は、初代藩主前田利常が寛文元(1661)年に建てましたが、正徳4(1714)年に全焼し、その後天保4(1833)年に再建されました。焼失前後の御殿絵図は複数存在します。
石の出土地を復元すると、御殿の北辺にあたることがわかりました。焼失前後の御殿構造を比較すると、石出土地付近に沓脱石または飛び石を置くような構造は、焼失前の初期の御殿と一致します。再建された御殿ではこの位置は台所で、そのような石を置くスペースは見当たりません。したがって、この石は、正徳4年に焼失する以前の御殿に附属した沓脱石あるいは飛び石と考えることができます。
平成22年3月の発掘調査説明会では、調査区の南側は建物があったようで、整地層が荒れていないことを明らかにしていました。この石が発見された付近は、その境と考えていたところとちょうど一致しており、発掘成果もこれを裏付けたといえます。
(古川・野垣)
越中国城主前田利同城囲の図に初期御殿を復元した図と御殿北側の拡大図に沓脱石・飛び石を復元した図
越中国城主前田利同城囲の図
(富山市郷土博物館蔵)に初期御殿を復元した図
  御殿北側の拡大図に
沓脱石・飛び石を復元したもの
(郷土博物館作成)赤丸は石の出土地   (富山国際職芸学院 上野幸夫教授による)
*ベースは「富山御本城御屋形之図」
(富山県立図書館蔵)による