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曲輪の周囲に廻らせた堤防状の土盛りを「土塁」と呼び、防御のために設けられた施設です。富山城の土塁のほとんどは明治以降に崩されたため、現在地上に残るのは本丸南東部(郷土博物館の東側)の一角のみです。この部分も昭和29年の富山産業大博覧会時に模造石垣に改変されました。
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平成23年3月にこの土塁上面で発掘調査を行い、土塁の残存状況を確かめました。
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その結果、地表面から15cm下に江戸時代の土塁の土が残っていました。土塁斜面が約40度の傾斜であったこともわかりました。
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江戸時代の絵図(「越中国富山城絵図面」安政二(1855)年)に土塁の上を廻る塀を描いたものがあります。この塀の跡が見つかることが期待されましたが、明治以降に土塁上部が約1m削られていたことがわかり、確認はできませんでした。
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現在外面が模造石垣となるなど一部改変は加わっていますが、その内部には江戸時代の土塁の基本構造がよく残っていることがわかりました。
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