本丸の発掘
東辺土塁の発掘(2007年度調査)
(3)中世のくぼ地
   
土塁直下に2つの文化層(遺構面・遺物包含層)を確認しました。土塁築造時に中世期遺構・遺物包含層の上部が削り取られたため、戦国後期の遺構・遺物は存在しません。

上層の中世2期は、浅いくぼ地地形の上に、土坑・溝が築かれました。土坑の性格は不明です。

下層の中世1期は、溝状のくぼ地と、その北側に井戸跡があります。くぼ地は、南へ向かい深く広くなります。このくぼ地には、まず浅い北側からごみが廃棄され、次第に深いほうへ広がっていきました。廃棄されたごみには、木片のほか、木の葉・昆虫・魚類・炭化穀類なども含む雑多な内容です。初期の廃棄ごみの中には、(こうがい)・高級漆器・輸入陶磁が含まれていることから、ごみを捨てた人物は、有力武家であったと考えられます。近接して存在する井戸は、ここが武家居館の敷地内であることを示しています。くぼ地から出土したかわらけは、14世紀から15世紀にかけてのものです。
くぼ地
くぼ地(北から)
笄(こうがい) 笄は、長さ15.4cm、幅1.2cm、重さ20gで、銅製です。胴部は額を一段彫込み、中央には文様を浮彫します。丸に三葉の花葉文2つを少し重ね、中央に小さな丸があります。湾曲した線などから三つ(かしわ)文とみられます。頭側の文様も同じ花文に見えます。地文は微小な点が連続する魚子地(ななこじ)で、精緻な作品です。


三つ柏文の浮き彫り 魚子地
三つ(かしわ)文の浮き彫り 魚子地(ななこじ)

室町後期の富山を示す史料には、応永5(1398)年能登の吉見詮頼(元能登守護職)が将軍足利氏から拝領した「外山郷」地頭職を京都東岩蔵寺に寄進、永享2(1430)年6代将軍足利義教が正室の藤原尹子(瑞春院)に与えた「富山柳町」を京都二尊院に寄進、の二つがあり、武家居館の年代はちょうどこの史料の年代と一致します。地名や立地からみて、調査区は「富山(外山)郷」に含まれると推定されますが、それを具体的に裏付ける発掘資料は見つかりませんでした。
(古川)