【富山之記にみる中世富山城】2
城の構造と大手
 
「富山之記」第17節から、富山城・城下町の描写が始まります。一向一揆後の城の修復作業の内容で、「鑿堀築築地拵城槨」堀を掘り、土塁を築いて城郭を整えたとあります。次は城の位置を示す内容で、搦手の状況は、「西〔之〕搦手〔者〕神通〔之〕大河」(〔 〕内は東北大学本。以下同じ)とあり、搦手は城の西側にある神通大河で、西の守護神として大将軍淵が存在するとしています。

城の構造のうち、周囲の堀は「三方有二重堀其深百尺塹〔之〕面〔者〕及百歩」、搦手である西側を除く北・東・南の三方に二重の堀を設け、深さ百尺(約300m)堀幅百歩(約1800m)の規模といいます。百や千は誇張の意味でしょう。

土塁上には「築地〔之〕上〔者〕(塗壁)〔着塀〕明物見」(( )内は山田本)。東北大学本には「塗壁」が欠けています。土塀を立て、物見櫓を建てたということです。

第18節には城の大手のことが説明されます。「大手者〔弓手之堀際〕(神保越前守之)〔御〕馬廻〔之〕衆頼子侍若黨殿原中間小者遁世者小嶋〔殿〕水越〔殿〕郎等〔之〕家」(中略)「妻手〔之方〕者槻尾〔槻原〕民部少輔〔殿〕手勢」。大手と妻手の守備者を述べています。大手=小嶋氏・水越氏で、妻手=槻尾(東北大学本では槻原)民部少輔です。

馬廻衆・頼子侍・若黨・殿原・中間・小者等は、家臣団内の序列です。馬廻衆は騎馬の武士で、直属の親衛隊。頼子侍は「ヨリコ」の付訓があることから、寄親寄子制に基づく「寄子」(中下層の地侍や名主層)と考えられます。若黨(党)・中間・小者は奉公人ですが、戦国期の若党は新参者や若い者を意味し、武士身分と理解されます。殿原は名字をもち在村のまま奉公する者で、武士身分の地侍層です。名字を持たない中間等従者はその下になります。

東北大学本では、大手に「弓手之堀際」の説明を付け、後段の妻手の対義語としています。弓手・妻手はいずれも弓馬術用語で、弓手は左手、妻手は右手で、馬手とも呼びます。これにより、大手の左手の堀際には小嶋・水越、大手の右側(の堀際)には槻尾(または槻原)と解され、大手前面の武将配置を示しています。山田本では「弓手」の表記が消えているので、文意が通りません。そしてこの大手の位置は、西側を搦手としていることから、その反対の東側ということになります。 

(古川)
山田孝雄氏の解釈に基づく城下町復元図
図2 山田孝雄氏の解釈に基づく城下町復元図