【富山之記にみる中世富山城】1
富山之記について
 
「富山之記」は、戦国期の富山について、地理・富山城沿革・政治・産業等を記した往来物です。往来物とは、特に寺子屋用に編集された教科書で、種別としては、近世地誌型往来に区分されます。

この記録は、『典籍雑攷』に山田孝雄氏蔵「冨士山之記」として紹介されて注目されました。これには東北大学図書館蔵の別本があり、それには「越中富山之記」となっています。

山田孝雄氏は、内容が富山のことを記述しており、「冨士山之記」は書写の誤りとされ、以後「富山之記」が通称の書名となりました。

その構成は、本文が33節あり、前半20節に富山城・城下町の概要、後半13節には城下町住民の生活が描かれています。

石川松太郎氏は、「富山之記」は地理教材を題材とするものに分類し、前半9項目は神保氏の武勇、後半9項目は城下町の繁栄と教養・文化について書かれたものとされました。

一つの城下町を取り上げ、領主の武威・藩士の武勇・城郭の壮観・武家街の整備・城下町の繁栄・神社仏閣の充実・自然の景観を記す内容は、「十三湊新城記」や「駿府往来」、「江戸往来」「松竹往来」とも共通しています。
 

「富山之記」の成立年代については、奥書きの慶長15(1610)年より古く、次に神保氏の富山城・城下町の治世を扱うということから、これまで戦国後期と考えられてきました。山田孝雄氏は語彙に鉄砲が採録されていないことから、鉄砲伝来の天文12年以前の天文初(1532)年頃と推定されました。掲載された語彙の構成からみると、武家に関することが多く、それが消える近世前期「江戸往来」よりも前の成立と考えることができます。  

中世富山城の位置は、前田氏の富山城(現在の城址公園)の位置とする説(金森久一氏)と、「富山之記」の内容から星井町周辺であるとする説(大田栄太郎氏、木下秀夫氏、石原与作氏、塩照夫氏など)が提起されていました。山田孝雄氏は前田氏の富山城との比較を行い、城が二重の堀で囲まれている姿は類似するが、神保氏の城は西を除く三方であるのに対し、前田氏の城は北を除く三方で異なっているとされました。

(古川)
【山田本】 山田孝雄「富山之記」『典籍雑攷』寶文館 1956年
  山田孝雄「富山記の内容の大綱」『富山之記』山田忠雄校訂1978年
(*1948年に書かれ、出版が30年後となった)
   
【東北大学本】 石川松太郎編『日本教科書大系 往来編第四巻 古往来(四)』講談社1970年
 
石原与作氏による神保期富山城復元図
図1 石原与作氏による神保期富山城復元図
(昭和39年11月北日本新聞掲載図を引用、一部改変)