幕末の石割例
 
常願寺川中流は、安政5年の飛越地震による大洪水で大きな被害を受けました。洪水の脅威は、常願寺川中流の各地に点在する数百トンといわれる巨石の存在によって推し量ることができます。
この地域にはまた、その洪水被害を供養する地蔵や観音像、水神を祀る石碑や供養塔も多く存在しています。それらの多くは常願寺川産の安山岩ですが、花崗岩を割ったものもいくつか見られ、矢穴を残す例が2基確認されました。いずれも常願寺川左岸中流の富山山市西番の富山霊園付近にあります。
1基は「為水除奉納法花経」と陰刻された供養塔で、側面に「西番村中」と小さく陰刻があります。願文に水除とあることから安政5年以後の造立と推定されます。素材は花崗岩の河川転石で、高さ35寸(106cm)、幅22寸(66.7cm)、厚さ15寸(45.5cm)の大きさです。願文の陰刻のある正面が割面で、矢穴は左側面に8個が並んで残っています。

矢穴はすべて1寸間隔で開けられ、各矢穴の規格は、上端幅3寸・底面幅1.5寸から2寸・深さ1.5寸から2寸です。矢穴の側面は平滑で、石ノミを使用して開けられています。
「為水除奉納法花経」碑の矢穴
「為水除奉納法花経」碑の矢穴
(富山市西番)
「為鶴澤佐山」碑の矢穴
「為鶴澤佐山」碑の矢穴
(富山市西番)
もう1基は「為鶴澤佐山」と陰刻された供養塔で、裏面に「元治元子仲夏建之竹本奏川書 無人 竹本文常 同文勇 同岳光 同文吉」とあり、元治元(1864)年竹本文常らが願主となって鶴澤佐山(義太夫関係者か)のために建立した供養塔とみられます。素材は花崗岩の河川転石で、高さ46寸(140cm)、幅22寸(66.7cm)、厚さ8寸(24.3cm)の大きさです。

願文の陰刻のある正面が割面で、矢穴は右側面に6個が並んで残っています。矢穴はすべて3寸から3.5寸間隔で開けられ、各矢穴の規格はいずれも上端幅3寸・底面幅1.5寸・深さ2寸で一定規格です。矢穴の側面は平滑で、石ノミを使用して開けられています。

これらの石碑に使われた花崗岩は、肉眼観察によれば早月川周辺の河川転石とみられます。矢穴はいずれも類似した規格で、3寸×1.5寸×2寸です。この矢穴の大きさは、江戸前期の富山城の矢穴よりやや小さく、近代の「豆矢」よりかなり大きい規格といえます。
このことから、近世から近代における石割における矢穴規格は、おおよそ小形化していったことがわかります。
(古川)