三ノ丸の石垣石材(2)
 
本丸搦手虎口は、本丸大手虎口のほぼ正面にあり、「高岡御城景台之絵図」では「貫土橋」、「高岡城之図」、文政4(1821)年「高岡古城之図」等4つの古図では「橋台石垣」と表記されています。また、「越中高岡古城図「大図」」では「橋台」の表記のほか、両岸に石垣橋台が描かれています。
高岡徹氏は、「高岡御城景台之絵図」に「半分足掛 半分車橋」と付記されていることから、ここには車のついた「車橋」が存在したと推定しています(『高岡の図書館』72)。

一方高岡城における石垣については、(慶長14年)8月26日付け前田利長発給文書に、「高岡の本丸つきどめ、いづれもくづれ候。三ヶ国の物ども、久々本丸のふしんにかかり、ようよう此間出来の所に、石がきくづれ申候由候。(以下略)」とあり、本丸つきどめの石垣が崩れたとしています。つきどめとは、本丸奥の突き当たりという意味と考えられるので、大手からみると正面にある搦手虎口をさすと推定されます。
このことから、本丸のつきどめに所在した石垣とは、本丸搦手虎口に設けられた車橋形式の橋台石垣で、本丸側・三ノ丸側の両岸ともに橋台石垣があったことが推定されます。

現在、高岡城に石垣が残るのは本丸土橋です。その両端は曲輪に接しており、隅角石は不要です。一方、本丸搦手の橋台石垣があったとすると、櫓台形状の石垣が互いに向かい合った形となり、隅角部は全部で4箇所が存在することになります。したがって、三ノ丸に現存する隅角石は、搦手橋台石垣の石材の一つの可能性が高いといえます。
古絵図のうち「高岡御城景台之絵図」「高岡城之図」「高岡古城之図」など5図では、本丸橋石垣部分は石垣表現となっていません。

本丸土橋石垣は乱積で、金沢城石垣編年2期に相当し、慶長期石積と共通します。しかし、石垣面がほぼ直立していること、(谷)落し積みが随所に認められること、平石の上に直接平石を置くかさね石という禁じ手の存在、縦に通る目地の存在などは、富山城における明治以降の改修方法に似ており、近代において石垣が積まれた可能性が出てきました。
明治8年高岡城は「高岡公園」に指定され、同年10月の「高岡古城蹟公園境界実測絵図」には石垣が見えることから、明治8年以前の公園指定に先立ち、本丸搦手橋台石垣を解体し、本丸土橋の護岸石積にし、残りは和田川護岸用材として利用したと推定されます。

高岡工芸高校による本丸土橋石垣の調査では、864石の石材を確認しており、土に埋もれた石材を加えると1000石近い石材が存在します。本丸搦手橋台石垣は、櫓台形状の石垣が相対していたとみられ、堀底から天端まで10mから12mと推定すれば約1300石の平石、80石の隅角石が復元されます。隅角石のほとんどを含む数百石を和田川護岸に持ち出しても、残る石数で本丸土橋の石積を行なうことは可能といえます。 

ただし、本丸土橋石垣が慶長期から存在したとする可能性も完全に否定されたわけではありません。近代に受けた石垣上部の改修が、全体を新しく見せている可能性があり、また、城絵図では土橋護岸石垣はあまり表現しない傾向にあるため、石垣が古くから存在しても表現されなかった可能性もあります。今後の発掘調査の成果が待たれます。
(古川)