ユスト高山右近年表(金沢期)
天正15
(1587)年
南坊みなみのぼうを号す(茶人としてか)
天正16
(1588)年
金沢へ。加賀藩軍奉行職、加判衆(家老待遇)となる。父ダリヨは越中へ
天正18
(1590)
小田原の役。利家に従軍。京都でフロイスに面会。堺で千利休茶会に出席
天正19
(1591)年
茶の師匠千利休切腹。*利休七哲に前田利長と右近(『茶道四祖伝書』ほか)。京都でイエズス会巡察師ヴァリアーノ(インド副王使節)に面会、隠居し宣教活動に専念する意思を表明するが、慰留される
文禄1
(1592)年
肥前名護屋で秀吉に謁見。秀吉の勘気が解け「和解」と理解。茶会開催(『神谷宗湛日記』)。長崎でヴァリアーノに面会
文禄2
(1593)年
肥前名護屋で茶会開催
文禄3
(1594)年
伏見利家邸で秀吉を招いた茶会に列席
慶長1
(1596)年
キリスト教徒迫害。右近への疑念を利家が防ぐ。殉職を決意。父ダリヨ京都で死去
慶長3
(1598)年
秀吉死去
慶長4
(1599)年
利家死去。利長金沢へ帰る。利家遺訓:右近を保護(「少充茶代をも遣し」)
家康が利長謀反の疑いにより加賀討伐を計画。横山長知と右近を大坂に派遣。
金沢城内惣構構築(〜1600)。右近が工事を担当したとされる
慶長5
(1600)年
浅井畷の戦い。利政を補佐し従軍
慶長6
(1601)年
教会建設。パアデレ・ペレスを金沢に招き、加賀藩家臣も洗礼
慶長8
(1603)年
内藤ジョアン一家金沢に招く。能登に教会2か所建設
慶長9
(1604)年
パアデレ・イルマンを金沢に常駐、経費は右近が負担。この頃加賀藩内キリシタン1500人ほどといわれる。以後加賀能登の洗礼者増加。慶長7から10年藩内家臣団対立。右近は横山長知派
慶長10
(1605)年
利長隠居。富山城に居城。右近は同行せず。金沢南蛮寺建立
慶長11
(1606)年
能登羽喰村に塩釜役等連署奉書に記名(筆頭)
慶長12
(1607)年
利長の妹豪姫、洗礼を受け金沢へ帰る
慶長13
(1608)年
金沢教会で盛大なクリスマス聖祭主催
脱走農民の探索等の法連署奉書に記名(末尾)
慶長14
(1609)年
富山城焼失、高岡築城。母・長男夫妻が死去
慶長15
(1610)年
信仰・茶湯三昧
慶長17
(1612)年
幕府直轄地におけるキリスト教禁止令。利長、右近に棄教を求めようとする
慶長19
(1614)年
金沢教会が日本で最も栄えたとする。キリスト教禁令。右近、内藤ジョアンとともに金沢を去る

(古川作成)