高岡城の構造を再評価する

2004年に発見された慶長17年写図「高岡御城景台之絵図」は、これまで知られていた城絵図とは表記が異なっています。慶長17年作成に疑問があるとする説があるものの、その表記は高岡城の構造を考える上で、重要な情報を持つものと評価されます。この城絵図により、高岡城の縄張りを改めて考えてみます。

「高岡御城景台之絵図」には、御丸内(本丸)・二ノ御丸(二ノ丸)・越繰輪・鍛屋の4つの郭と、御表口(大手)・御大手崎(搦手)・大御門(本丸大手)の3つの門が記されています。 越繰輪とされた曲輪は、他の絵図では三ノ丸とされます。越繰輪は腰曲輪・帯曲輪と同意で、主郭の周囲に配置され、敵を誘導して攻撃するための細長い曲輪をいいます。当初は帯曲輪として築かれたとみられますが、面積の広い曲輪であるため、実際は重臣屋敷をおき三ノ丸として利用されたことが図中の「今枝民部」という注記から推定されます。今枝民部直恒は利長の重臣七人衆の一人で、千五百石の知行高があります。
鍛屋とされたところは、他の絵図では鍛冶丸と呼ぶ曲輪です。鍛屋とは鍛冶工房の意味で、二ノ丸へ入るための〔土編に星〕(埋)門の横に添書きされていることから、広いスペースを利用して鍛冶工房が置かれたと考えられます。(注1)

以上の知見から、高岡城の縄張り構造を見直すと、主郭である本丸と二ノ丸は並列する連郭式で、本丸側面はL字形の腰曲輪(三ノ丸)で防御しており、全体として連郭式+梯郭式と理解できます。また本丸背後には沼が広がり、後堅固の城といえます。このような縄張りは、基本的には慶長期の富山城と同じ構造です。
 
富山城・高岡城の基本縄張を比較する
富山城・高岡城の基本縄張を比較する

細部を見ると、高岡城と富山城では次の3つの点で大きな違いがあります。

(1)富山城では本丸の周囲は、自然要害(神通川)、二ノ丸、出丸(薪丸・西ノ丸)で守られ、さらに三ノ丸がその外側を守るという二重構造であるのに対し、高岡城では本丸の周囲は、自然要害(沼沢地)、二ノ丸、三ノ丸(腰曲輪)が守る単純構造である。

(2)それぞれの曲輪の面積比が異なる。本丸と二の丸の面積比は、富山城が1:0.52、高岡城が1:0.34で、高岡城の二ノ丸面積が相対的に狭い。本丸+二ノ丸と三ノ丸の面積比は、富山城が1:4.24、高岡城が1:0.56となり、高岡城の三ノ丸(腰曲輪)面積が極めて小さく、富山城の13%にすぎないという違いが見られる。

(3)高岡城の三ノ丸構造は入り込んだ小堀など複雑化が図られ、また堀幅が広い。
(古川)
(注1)鍛には打ち破るなどの意味もあり、埋門が一部破損した状態をさす言葉である可能性もあります。