高岡城・これまでの評価

慶長14年富山城は大火により焼失しました。利長は富山入城以前に居城した守山城の南、高岡関野に翌年高岡城を築城しました。

これまで各種高岡城絵図により、高岡城の構造は、本丸・二ノ丸・三ノ丸・鍛冶丸・明丸の5つの郭とそれらを取り巻く広い水堀によって構成されています。本丸北には小竹薮とよばれる郭状の高台がありますが、城外とされています。

堀幅は広く、各郭の面積が広大なことが大きな特徴で、本丸の広さだけでも約34,000平方メートルと富山城の約1.7倍もあります。

増山安太郎氏は、「他に無類な形式であると思はれる。即ち他の城は本丸を包んで各郭がこれを保護しているのであるが、これ(高岡城)は、全体が二列縦隊に並ぶことによって本丸を護ろうというのである。(中略)本丸の片側は全露出の形である。思ふに此方面に大きな沼地があり、これを利用した為めに、特異なプランが立てられたものであらう。」と縄張型式は地形との関わりから理解されました。また金沢城主郭部と比較して高岡城の各郭の面積が大きいという特色を指摘し、それは防備力を大きくする必要があったためとされました。

増山氏は、このほかにも高岡城の各構造について実に詳細な分析を行っています。それらは約70年前の昭和14(1939)年刊行『高岡古城志』にまとめられていますが、その視点は現在の城郭研究にも通用するハイレベルで卓越した分析内容です。現在の高岡城の評価は基本的にこの本の内容に依拠しており、『高岡市史』の高岡城の記述もほぼこの本と同じ中身になっています。

増山氏はこの本の中で、「松雲公夜話」を引用して高山右近が縄張を行ったとし、出典は不明ですが、富山城も右近の縄張りと言われていると述べていることが、注目されます。

佐伯哲也氏は、「越中高岡城の縄張りについて」で、高岡城最大の特徴を「本丸の周囲に曲輪と曲輪を土橋で連結させ、数珠繋ぎのように配置」する、「重ね馬出」であると分析し、防御性を重視した求心力の高い縄張りであると評価されています。また高山右近縄張説に対しては、右近が築いたとされる高槻城(大阪)・船上城(兵庫)の縄張りと異なること、重ね馬出の縄張りは右近の思想にはないことから、右近縄張り説を否定し、利長独自が設計したと考えられるという新しい見解を提示されました。
(古川)