Q.9なぜこれまで富山城は注目されてこなかったのですか?
A 富山城や城下町は、何度も大火で全焼し、記録資料類も焼けてなくなってしまいました。また、近年では第二次世界大戦で焼夷弾しょういだんの攻撃を受け、残った資料や城下町の姿もすべて焼き尽くされてしまいました。
このような資料的制約が、富山城の研究が進展しなかった一番の原因です。

戦後、富山城には鉄筋コンクリートの模擬もぎ天守てんしゅ(現在の郷土博物館)が作られました。この建設は、当時、戦後復興のシンボルとして市民を活気づける目的で行われたものですが、現在の文化財の考え方では、歴史的に存在しなかった建物を作ることには、良い評価が与えられていません。このようなことに加え、戦争で町全体が焼け野原になったという記憶から、市民の意識から「城下町」であったことがほとんど消え去ってしまったことも、富山城の研究を遅らせた原因と思います。

現在、富山市が進めている富山城址公園の整備工事で、遺跡の発掘調査を行うようになって、はじめて数々の富山城関係遺物が出土することによって、失われた富山城の歴史が解明されるようになりました。これによって、聚楽第を手本としたことなど、様々な新知見が研究できるようになったわけです。

この意味で、今後も考古学が果たす役割は大きいと思われます。ただし、発掘したからわかる、ということではなく、それらがどのような役割を果たしたか、どのような意味をもっているかを、さまざまな「研究」を蓄積することによって、初めてわかることが多いといえます。