Q.3富山城の瓦を復元したらどうなるのですか?
A 前田利長は、慶長10(1605)年、富山城の石垣上にやぐらと呼ばれる建物を建築したとみられます。その櫓の屋根に葺かれた瓦が、今回新たに発見された瓦です。この時期の瓦は、「いぶし瓦」といい、黒色あるいはにぶい灰色をしています。丸瓦の文様は、前田氏の家紋と同じ「梅鉢文うめばちもん」が付けられています。

富山城の瓦は、他の城の瓦より1.5倍から2倍の厚さがあり、また、製作技術からみて、朝鮮半島系の瓦工人が関与していたとみられます。

文様や作りが類似した瓦は、秀吉が築いた京都・聚楽第じゅらくだいの東側から出土しました。そこには前田利家・利長父子の屋敷があったとされます。その瓦は、表面に金箔が貼られたいわゆる「金箔瓦きんぱくがわら」で、屋敷の館の屋根に葺かれたものです。金箔瓦は太陽光にきらきらときらめき、周囲からみて華美なイメージを与えました。秀吉の聚楽第ももちろん金箔瓦が使用されていて、きらびやかな城に見えたことでしょう。
富山城の瓦には、焼失のため残っていませんが、おそらく金箔瓦だったと推定されます。同時期の金沢城では文様は違いますが金箔瓦が使用されており、同じ利長が富山城でも使ったことは十分考えられます。

富山城の構造は、聚楽第とたいへんよく似ています。利長は父利家とともに、秀吉の重臣として聚楽第に招かれ、また屋敷から毎日眺めて生活していました。その華麗な聚楽第を手本とし、隠居して作った富山城にその姿を重ねたと思われます。聚楽第の姿は、図屏風ずびょうぶなどに残され、その豪壮さを今でも見ることができます。