絵図にみる大手門石垣


三ノ丸の南辺には、大手門が設けられました。利長期富山城の大手は三ノ丸の西辺に存在し、寛文初年の城郭改修の際に南に変更されたと考えられます。

「万治年間富山旧市街図」(富山県立図書館蔵)では、寛文初年の改修状況が確認されます。これによると三ノ丸南には、白いL字形の石垣表現がみえ、桝形虎口石垣が築造されていたことがわかります。慶長期の状況を残す「越中国富山古城之図」(金沢市立玉川図書館蔵)によれば、そこは平虎口の土塁造で、小さな木橋が架けられていました。

約14年後の延宝5(1677)年「越中国富山城絵図」(富山県立図書館蔵)では、石垣造の桝形虎口は表現されず、土塁による桝形虎口と、文字で「門」の表記がなされています。ただし絵図の注記では、その門には「南方へ出候門建申度候事」とあり、この絵図が寛文初年から着手した改修で修理しきれなかった箇所について、延宝5年以後予定された普請計画であることを示しています。

天明―安政「富山城図」(富山県立図書館蔵)には、天明期(1781年から1788年)に「御造作之調理」すなわち普請計画が記されました。その内容は、「御門ノ左右ノ下清水ニテ土居クズレルニ付土木伏可申事」とあり、天明期以前において桝形虎口の両側の土塁が、地下水の噴出により崩れたことにより、修理するといった内容です。

天保3(1832)年「越中国富山城焼失場之覚」(富山県立図書館蔵)には、土塁による桝形虎口と門・番所が描かれますが、これは焼失以前の姿です。

嘉永7・安政元(1854)年の「越中国富山城絵図」(富山県立図書館蔵)には土塁による桝形虎口と門・番所、「越中富山御城下絵図」(富山県立図書館蔵)には土塁による桝形虎口が描かれています。

また江戸後期とみられる「旧富山城郭之図」には、枡形虎口は土塁外周が石垣と同じ色で縁取りされており、部分的な石垣として表現されます。


以上の流れを検討すると、慶長期にあった土塁を、寛文初期に改修し、枡形虎口に変更して、石垣造としました。このことは、万治4年江戸幕府老中連署奉書では触れられておらず、「冠木門七ヶ所立候事」の一つがこの外端の虎口に置かれる予定であった門をさすものと推定されます。

その後天明期の1図を除いては、土塁、または部分的な石垣であると表現されています。天明期の図は調理図(計画図)であるという注記があるため、実際に築造された石垣を表現したものではなく、完成予定図かもしれません。また、同図には湧水による崩れが生じるという表記もあることから、寛文初期にはいったん石垣が築造されたものの、天明期以前に湧水による崩壊が生じ、以後上部は土塁造とし、水際の下部は石垣造あるいは護岸がなされたと考えられます。

発掘調査で検出された石垣は、いずれも寛文期に築造された石垣のうち、水面付近より下の部分が残存していたものです。その上部にあった控えの短い割玉石は、それ以後に補修したものと推定されます。
(古川)
万治絵図にみる大手門の構造
万治絵図にみる大手門の構造