薪丸(たきぎまる)

慶長期富山城の姿を残す「越中国富山古城之図」(金沢市立玉川図書館蔵)には、本丸の東側出丸に「薪丸」と記されています。その場所は後の絵図に「東ノ丸」「東ノ出丸」「中之御屋敷」と記され、その前身になった郭と考えられています。

慶長期富山城の正門(大手)は西側にあり、本丸の背後に存在した薪丸は、本丸東側を守る重要な郭であったことがわかります。薪丸の東側には三の丸が及んでいないため、敵が攻め込んできた場合に薪丸は直接攻撃にさらされてしまいます。この意味で薪丸は本丸を防備するための重要な位置にあるといえます。

薪丸の名付け親は前田利長です。薪丸という名前の郭は、それまで利長がいた金沢城にも存在します。金沢城の薪丸は、慶長6年嗣子利常(第3代藩主)の正室として将軍徳川秀忠の次女珠姫(1599年から1622年)を迎え入れた際に築かれたもので、薪木を入れるための蔵を建てたことにちなんだ郭名とされています。

しかし珠姫の輿入れは、幕府への叛意のないことを証明するため利長が母まつ(芳春院)を人質として幕府へ送った見返りで、利長にとっては前田・徳川の融和措置でした。利長にとって珠姫の輿入れにちなんだ薪丸の名は、母まつとの別離という別の意味もあったのです。

富山に隠居した利長は、築城後重要な東側の出丸にその薪丸の名を付けました。東国の江戸にいる母まつの面影を富山城の縄張りに投影し、想いを忘れないという意味だったのかもしれません。
(古川)
薪丸の位置(正保絵図)
薪丸の位置(正保絵図)