富山城の焼失
 
慶長14年3月18日に発生した城下町の大火は、富山城に飛び火して、城郭を全焼しました。

家康は利長に対して、早速見舞い状を送っています。その内容は、「不慮の火事により居城が悉く焼失した」ことを承知したので、「居城の普請についてはすべて任せるので、気遣いは無用であると将軍秀忠のお達しがある」と伝えました。

これにより、富山城は、再建が困難なほど「悉く」焼失したことが判明します。

「當代記」には、「吉光脇指、落葉壺カタツキ、火難ヲ遁。其外財宝悉焼失」、「天寛日記」には、「青光脇差・落葉肩衝のみ火難を免、其外財宝悉焼亡。」とあり、財宝も悉く焼けたが、2点については火難を逃れたとあります。

1点は「吉光」の脇差刀です。吉光は刀工の銘で、「粟田口吉光」とみられます。粟田口吉光は、鎌倉期山城国の刀工で、通称藤四郎。越中の郷義弘・相州の五郎正宗とともに豊臣秀吉が三作と称しました。現存する多くは短刀で、名物も多くあります。古来より珍重されてきたため、信長や秀吉により蒐集されましたが、本能寺の変や大坂夏の陣で焼けました。名刀の焼身はその後家康が越前康継に焼き直しさせたものも多いとされます。

利長が所有した吉光は、慶長7年二代将軍秀忠から拝領したものです。『象賢紀略』には「あらみ藤四郎御わきざし」、『中川典克筆記』には「薬研藤四郎」とあります。富山城が焼失した慶長14年に焼失を逃れたのは、秀忠拝領の脇差「吉光」であった可能性が高いといえます。
なお、文化9年加賀藩宝蔵にあった刀剣の調査報告(『国事雑抄』)では、小刀3振があり、うち1振は「平野藤四郎」銘です。

もう一つの「落葉壺カタツキ」とは、肩衝茶入(かたつきちゃいれ)です。肩衝茶入は、肩が張り出した形状の小形の抹茶入れ茶壷で、やや縦長のものです。一般の茶壷は「葉茶壺」と呼ばれ、抹茶を入れる茶入は「擂茶壺」とも呼ばれました。

利家は、おそらく名物であろう「この村」銘の肩衝茶入を父利家から譲り受けました(天正17年『三壺聞書』等)。このほか利家は、山岡宗無からもらった「宗無肩衝」を所有していました。また、利長が蒲生氏郷から譲り受けた「蒲生肩衝」茶入が現存しています(金沢市立中村記念美術館蔵)。「落葉壺」の意味は、「落葉」と銘する肩衝茶入の意味でしょうか。

利長は、富山城建設に莫大な財力を投入しました。石垣築造・櫓建築・重厚な瓦などにとどまらず、多くの「財宝」を持ち込んでいたと記しています。それが2つを残し焼失した様は、大きな損失であったのでしょう。

(古川)