利長が金沢から連れてきた家臣たち(3)
馬見の名人

利長が金沢から連れてきた家臣団を記した「慶長十(1605)年富山侍帳」には、組外衆に80石の知行高をもつ「福田三郎右衛門」がいますが、役名の記載がありません。

富山藩初期の「万治年間富山旧市街図」には、城内三ノ丸の大手以東に屋敷を構える家臣の一人に、「伯楽九郎兵衛」が記入されています。そこに屋敷を構えることは、富山藩にとって重要な役割を担っていた人物であることを意味しています。

しかし、富山藩初期の藩士名簿「御分国之砌御家中禄高帖」には伯楽氏の名前がみえません。

伯楽は中国故事で「馬の良否を見分ける人」をいい、「富山之記」にも城下町本町に住む技術者として「伯楽ハクラウ」を掲げています。馬の性質を見分け良馬を得ることは、中世以来戦術にとって重要な事柄だったと言われました。

伯楽氏は、後に厩方馬見才許となる永嶋氏邸と並んで存在しており、永嶋市兵衛に馬見の技術を伝授する役目を持っていたとみられます。そうすると、「伯楽」は苗字でなく役名であると考えられます。

富山分藩前の加賀藩士名簿「寛永四年侍帳」(1627年)には、「未相極不申衆」の一人に知行高80石の「福田三郎左衛門」がおり、「白楽」の役名がついています。白楽は伯楽と同意で、やはり馬見役と思われます。富山侍帳にみる福田三郎右衛門は、寛永四年侍帳の「伯楽」福田三郎左衛門と同一人物(左右の書き誤りとみる)か、あるいは親子など関係人物の可能性が高いと考えられますが、いずれにせよ、福田氏が馬見の熟練技術者か、あるいはそれを統括する任に当たっていたと推定することができます。
(古川)