利長が金沢から連れてきた家臣たち(2)
城造りの担い手
 
利長が金沢から連れてきた家臣団を記した「慶長十(1605)年富山侍帳」には、石垣の項でもみたとおり、組外衆に「穴生又助」の名がみえます。

又助は60石の知行高を与えられた中級藩士で、役名の記載がありませんが、「穴生」の名が示すとおり、石垣を築造する穴生役として富山へ来たものと考えられます。又助は石切らの職人を統括して、富山城石垣築造の監督を行ったとみられます。

又助は、「文禄年中以来等之旧記」によれば江州坂本穴生村(近江国穴太村をさす)出身者で、「慶長十年富山侍帳」に記載があることから、慶長10年以前に金沢に住み、利長に伴って富山に移ったことがわかります。その後寛永年間(1624年から1643年)に加賀藩穴生役に取り立てられています。それまでの空白期間又助の所在は不明ですが、加賀藩側の慶長・元和の侍帳に又助の名がないことから、慶長14年の大火後は高岡へ移って高岡城の石垣築造に従事したと考えられます。利長逝去後の慶長19年以降石垣築造が発生していないため、金沢へ帰ったとみられますが、確証はありません。
(古川)