瓦の生産

(2) 瓦窯場「山岸村」の粘土採掘地

山岸村が瓦窯場に選定されたのは、舟運に便利だったという理由だけではありません。
山岸村の西から北に広がる段丘地形のあちこちからは、瓦や陶器用の良質の河成粘土が産出したことも、大きな理由と考えられます。

百塚村の西側、針原新村の通称椿林に、美濃国(岐阜県)から陶工沢井与平が来て、瓦・火消壺・甕類を焼き、それが今は絶えた「針原焼」の由来とされます(『長岡の郷土史』)。火消壺は一般に燻し製品が多いことから、ここで焼かれたものが燻しによるものとすれば、瓦もまた燻し瓦と推定することができます。
針原焼の瓦は、富山藩主墓所長岡御廟所門の御用瓦であったといいます(『長岡の郷土史』)。現在墓所内に散在する古瓦の破片は、いずれも燻し瓦で、この針原焼製品かもしれません。

椿林付近の粘土は「針原粘土」と呼ばれ、その後も使用されましたが、正確な採掘地は明らかになっていません。地籍図によると、椿林の北、針原新村北部には字「土取場」が存在します。この場所は旧扇状地を流れた河川岸辺にあたり、良質な粘土が存在する場所です。土とは恐らく粘土のことを意味し、ここが粘土採掘場の最有力候補地といえます。
(古川)

粘土採掘地の候補地、字「土取場」と椿林の位置
粘土採掘地の候補地、字「土取場」と椿林の位置