幕末期の富山城瓦

(2)千歳御門の赤瓦
 
10代藩主利保は、和歌・能・本草学など学芸に秀でた人物でした。弘化3(1846)年の隠居後、東出丸に隠居所を建設しました。建物は、能舞台を持つ豪華なもので千歳御殿と呼ばれました。
この御殿の正門は、千歳御門と呼ばれ、明治時代に民間に払い下げられていましたが、平成20年に城内に移築されました。この移築にあたり、解体された棟木から、「嘉永二年七月上旬出来」の墨書が見つかり、嘉永2年8月御殿竣工の記載のある絵図の存在と合わせ、嘉永2年建築であることが確定しました。
移築にあたり、屋根瓦もすべて解体され、創建期瓦について確認することができました。
千歳御門創建瓦は、表面に赤い釉薬がついた、いわゆる「赤瓦」で、越前で製作された赤瓦「越前赤瓦」の系統に属する瓦です。赤い釉薬は鉄釉で、雪国では燻瓦が凍結して割れやすい点を改良し、耐寒瓦として18世紀以降に流行したとされています(京都国立博物館・久保智康氏の研究)。 千歳御門の創建時の赤瓦(軒丸瓦)
千歳御門の創建時の赤瓦
(軒丸瓦)
越前系赤瓦は、瀬戸系の窯である連房式登窯で焼かれました。富山では、加賀藩領の立山・上末の越中瀬戸窯群において生産され、延宝7(1679)年金沢城に3万枚納品されたとする記録があります(『越中瀬戸四百年の変遷』)。孫市窯周辺の発掘調査では燻瓦・赤瓦がともに散見されています。
瓦には、富山前田家の家紋「丁子梅鉢文」の付いた軒丸瓦、菊文・菊葉文の付いた軒平瓦、丸瓦・平瓦のほか、鬼瓦などがあります。
千歳御門創建瓦の特徴として、1.ゆがみが大きい、2.釉薬のかかりが不十分である、という点があげられます。1.は耐火性能の低い粘土の使用、2.は技術不足が原因であると考えられます。このような技術上の不備は、耐火性能の低い粘土を使用し、釉薬をかけない燻瓦(いぶしかわら)を作っていた瓦工人が、製法の異なる赤瓦を特別に作ったことにより発生したものと考えられます(久保智康氏のご教示)。
この赤瓦はどこで焼かれたかは不明ですが、上記の観点からみて、山岸村で焼かれた可能性があると考えます。

郷土博物館2階ロビーに瓦を展示してありますので、ご覧ください。
(古川)
千歳御門の創建時の赤瓦(鬼瓦)
千歳御門の創建時の赤瓦(鬼瓦)
千歳御門の創建時の瓦葺の復元
千歳御門の創建時の瓦葺の復元
(郷土博物館)