富山城下町の歴史

神保氏や佐々成政の時代、富山城のまわりには家臣や町人が住む城下町が形成されていました。その姿を知る手がかりは、江戸時代初期に書かれた往来物と呼ばれる歴史教科書『富山之記』にあります。この本は三千余字で構成されますが、広く知識を学ぶため、半分は物の名や人名が列挙されており、残りの半分に神保氏が富山城を作った歴史や、城・城下町の姿が美辞麗句をもって描かれています。

その内容をみると、城は三方を二重の堀が巡る堅固なもので、西側の神通川が搦手(裏門)とされています。城の回りには中心的家臣馬廻衆の家五千軒、東の表門や南門には武将配下一千人づつ、西門・北門には千五百間(2.7km)にわたって町並みがあり、西の金屋の渡し場から東の鼬川まで約1里(4km)が武家屋敷の範囲でした。また城の南東には寺社が集まり寺町を形成していました。そして武家屋敷の南方の大町周辺には商工業を営む町人が住み、城下町を形成していたとあります。

数字や規模はちょっと大げさですが、城は東が正面であったことは、魚津を本拠とした椎名氏に対抗して富山城が築かれたことを考えると正しいと考えられ、また城の南東にあたる中央通付近には江戸時代以前の古い「古寺町」が存在することから考えると、『富山之記』の記述には信頼できる内容も含まれていると考えられます。

佐々成政の頃には、神保氏が作った城下町や街道をより整備したと考えられていますが、残念ながらそれを示す資料はありません。富山城の東を流れる鼬川をみると、辰巳町付近と石倉町付近の2か所で、大きくL字形に屈曲しています。これは町屋整備にあたって人工的に流路を作り変えたことを示しています。成政は治水に力を入れたと言われており、この事業も成政が行なった可能性は高いといえるでしょう。

その後、前田利長が慶長10(1605)年から城下町の再整備を大々的に行いました。その頃の城下町の姿は1647年頃の「越中国富山古城絵図」から推定されます。その後に描かれたいくつかの城下町絵図から城下町の変遷をみると、町は城を中心に、西側と南側に次第に拡張されていったことがわかります。また新庄から柳町を経て富山城に至る北陸街道沿いと、城から太田口を経て南へ延びる飛騨街道沿いは、古くから開けていたようすがうかがえます。このようなことから、さかのぼって佐々成政時代の城下町の範囲を復元すると、現在の富山城を中心に、東は鼬川、南は山王町、西は諏訪川原町あたりまでが、実質的な城下町の範囲と推定されます。

発掘の成果によると、家臣団が住んだ三の丸に相当する桜木町内では、室町時代は水田でしたが、戦国時代に入って建物が建てられ、整備されたことがわかりました。

また、総曲輪地区で発掘された江戸時代初め頃の井戸や穴は裕福な商人の住む「町屋敷」跡と推定されます。「越中国富山古城絵図」では「町屋敷」となっており、その後1660年頃の絵図には藩士屋敷と書かれていますので、発掘で見つかった井戸などは「越中国富山古城絵図」が描かれた頃のものと考えられます。

このように発展した城下町には、そこに住んだ商工業を営む人々を示す町名が多く残っていました。寺町、御坊町、陰陽師、大工町、木町、材木町、船頭町、米屋町、鉄炮町、鍛冶町、金屋町、風呂屋町、旅籠町、四十物(乾物)町等があります。
(古川)