大聖寺城下町と富山城下町の比較

富山藩の分藩と同時に、加賀大聖寺藩7万石も分藩しました。大聖寺藩は城を持たず、一国一城令で廃城になった旧城のある錦城山の麓に、御館(藩邸・陣屋)が置かれ、その東に城下町が展開しました。

大聖寺城下町は、東端の藩邸を中心に南北に広がりを見せています。北側には大聖寺川が縦断し、町割に大きく影響を与えています。北陸街道は北東方向から城下町に入り、西進して藩邸に至り、南に折れて越前方向へ抜けています。目抜通りが藩邸に向かい、その両側に町屋が並ぶ、いわゆる堅町型町割を示しています。この町割りはおそらく藩邸裏の錦城山にあった旧大聖寺城時代の城下町を継承して整備したためと思われます。

城下町では、藩邸周囲を武家地で囲み、藩邸前の中心部に町人地が形成されます。武家地は町人地の周囲を取り囲むように配置されています。城下町東部の北陸街道沿いには、弓足軽・鉄砲足軽が配置されていることから、東の加賀側を入口として意識していたことがわかります。

大聖寺城下町は、旧城直下の藩邸及びその周囲に武家地が形成され、その東に堅町型の町屋群が存在していたと思われます。分藩以後はその町屋群の周囲を新たに武家地で囲み、南に寺町を集中させ、旧城下町を拡大するという形で再編成を図ったものと理解されます。

この意味で、同時に分藩した富山城下町が、慶長期城下町の拡張という形で行われたという状況と類似していることがわかります。
(古川)