城下町の発掘調査
総曲輪三丁目・一番町地区の発掘
(2014年度調査)
 
1.調査のあらまし
総曲輪西地区市街地再開発事業に伴い、三ノ丸南側の外堀・武家屋敷地・町屋敷地を発掘調査しました。
三ノ丸南側外堀の成果「外堀の発掘(2014年度調査)
この調査区は、総曲輪通りと平和通りの間に位置します。富山城三ノ丸の南側から城下町主要部にかけての一角にあたり、北側から順に、三ノ丸土塁・外堀・武家屋敷・背割下水(せわりげすい)・町屋敷(商家)の順となります。調査区の西に隣接して大手門がありました。外堀と大手門は富山藩期に新たに築造されたもので、平成20年度には大手門石垣の一部が見つかり、位置が確定できました。
調査の結果、江戸時代後期から幕末を主体とした遺構・遺物が見つかりました。
遺構には、寛文(かんぶん)年間の外堀跡・土塁の基礎・背割下水・井戸・廃棄土坑(はいきどこう)・溝などがあります。
町屋敷地、武家屋敷地完掘状況(北から)
町屋敷地、武家屋敷地完掘状況(北から)
出土遺物には、かわらけ、伊万里(いまり)唐津(からつ)越中瀬戸(えっちゅうせと)瀬戸美濃(せとみの)などの陶磁器、曲物(まげもの)漆器椀(しっきわん)下駄(げた)(はし)(おけ)型の井戸側(いどがわ)煙管(きせる)・かんざし・銭などがあります。
 
2.町屋敷と背割下水の調査
調査区の南では、町屋敷と武家屋敷の境に設置された東西方向の背割下水を検出しました。長さは約16mです。背割下水(下の写真)の右側が町屋敷、左側が武家屋敷になります。
背割下水は、幅約2mで、江戸後期に築かれた背割下水の上に、近代の背割下水を築いています。
背割下水完掘状況(西から)
江戸後期 背割下水完掘状況(西から)
江戸期には、両側に15cmから30cm大の玉石を積んでおり、底面には石を敷いていません。近代には、他の調査区で見つかったのと同様に、底面にも平らな石を敷き詰めるようになりました。今回明らかになった背割下水の変遷や構造は、過去に調査された背割下水の変遷や構造と同じです。
江戸期の絵図には、今回の調査区内で背割下水が屈曲して描かれています。しかし、調査では屈曲する部分は見つかりませんでした。
調査区東側の廃棄土坑からは、刷毛(はけ)や漆塗りの桶や下駄などが出土し、漆工房の可能性があります。これまで絵図では不明だった町屋敷の土地利用が分ります。
井戸断割状況(西から)
井戸断割状況(西から)
背割下水の下で見つかった井戸は、17世紀代と考えられます。
井戸側の製材を打割(うちわり)で行っています。他の井戸側の多くが(のこぎり)引きであることと異なっており、時代により製材方法に違いがあると考えられます。
 
3.武家屋敷の調査
武家屋敷の範囲は、背割下水から総曲輪通りまでの間です。万治から寛文年間の絵図には「蠏江主水(かにえもんど)」、天保年間の絵図には「蟹江(かにえ)」、安政元年の絵図には「蠏江監物(けんもつ)」と記載されており、寛文年間から幕末まで一貫して蠏江家が屋敷を構えていました。蠏江主水は馬廻(うままわり)頭、蠏江監物は家老であり、大手門の周辺は番方と呼ばれる城域を警護する武家で固められていました。
遺構は、屋敷地の奥部分にあたる背割下水付近と東側で、廃棄土坑・井戸・溝などを検出しました。廃棄土坑は、大きさが直径4mから6m、深さが1mから1.9mの巨大なものです。廃棄土坑からは陶磁器や木製品が大量に出土しました。井戸は少なくとも4基あり、幅10cmほどの板を組み合わせた桶状の井戸枠が主に使われていました。これらは重複するものがあり、何度も作り変えられたことがわかります。
出土した木製品には、(すみ)打ちや加工痕が残ったものがあり、屋敷の裏で職人に屋敷や家具などの修繕を行わせていた可能性があります。


今回の調査では町屋敷地・武家屋敷地・外堀を同時に確認した、貴重な成果となりました。
(細辻)