城下町の発掘調査
一番町地区の発掘(2006年度調査)
(3)慶長期城下町の名残か

2006年の発掘調査では、町屋敷地内から、石組の背割下水と平行して東西に延びる溝が検出されました。

この溝は出土遺物からみて17世紀初頭の年代が考えられます。この時期は前田利長の隠居所としての慶長期富山城・城下町の形成期であることから、この溝はその整備に伴う城下町遺構である可能性があります。

この溝の方向が背割下水と同じ方向であることは、近世城下町建設当初の東西地割方向が、富山藩初期寛文期の再整備の際にも維持されたことを示しています。この溝の規模は背割下水と近似することから、慶長期において背割下水あるいは排水の役割を果たした溝と考えてもいいでしょう。

慶長期城下町の地割を残すとされている正保絵図と万治・寛文絵図とを比較した場合、総曲輪周辺では大きな変更が認められます。慶長期には外堀沿いは武家屋敷でなく町屋敷であり、入口は南側の北陸街道側となり、外堀に接する部分に街路はありません。万治・寛文期には北陸街道を南にずらし、1街区を大きくした上で東西に背割下水を通して二分し、北半分を武家地、南半分を町屋敷にして、街区の変更を行っています。外堀沿いには新たに街路が新設され、武家屋敷の入口は外堀の街路になりました。

これらの変更により、北陸街道とそれに連結した主要街路を中心とした交通網が整備され、それらを利用した経済流通が促進されたと評価できます。

また、この溝は東から西へ流れているのに対し、背割下水は逆に西から東へと傾斜します。この違いは、寛文期の新町割は慶長期の地割を基本的には踏襲したものの、生活面の基盤高さは、相当量の盛土・削平作業を伴っていた可能性があるといえます。町屋の一角では17世紀前半以降敷地全体が深く掘削・再盛土されていました。周辺は砂礫・シルト・泥炭層がめまぐるしく変化し、神通川自然堤防の後背湿地エリアの特徴が残されていました。万治・寛文絵図でも近隣に池状の残地が認められ、特に湿気などが発生しやすい湿地上の屋敷地では防湿用の地盤改良を行うとともに、生活面を高くしたものと考えられます。
(古川)
慶長期城下町の水路か(赤線内)南西から
慶長期城下町の水路か(赤線内) 南西から