城下町の発掘調査
一番町地区の発掘(2006年度調査)
(1)城下町遺構と絵図

2006年に行われた富山市総曲輪地内(大和予定地)の発掘調査では、18世紀から19世紀頃の城下町遺構が検出されました。

発掘地は、北陸街道に面する町屋(商家)と、その北側に展開する武家屋敷との境界に当たるところで、その両者を隔てる東西方向の背割下水も検出されました。

この下水施設は、両側を玉石積で護岸した水路で、幅約1.5mから2.8m、深さ約60cmのものです。幕末まで存続しており、古くは素掘りであったものが途中で玉石積に変えられたことがわかりました。この水路底面は西から東へ緩やかに傾斜しており、東へ向かって排水が流れていたことを示しています。また西側では水路をまたぐ小橋の跡も確認されました。

この水路に直交して北側(武家地側)へ延びる玉石列も検出されました。これは武家屋敷境を示す地境溝で、屋敷から背割下水へ排水を流す役目をもっていたと思われます。

調査で検出されたこれらの背割下水・地境溝は、GIS(地理情報システム)という手法を用い、調査を担当した日本海航測株式会社(本社金沢市)により絵図・地図上に復元されました。

遺構の年代にあたる江戸後期の絵図と照合した結果、武家屋敷境は、天保年間(1830年から1844年)の「御城内外御焼失御絵図面」の戸田邸とその東の明地との境、安政元年(1854)年の「越中富山御城下絵図」の戸田中務邸とその東の明地との境に該当することが明らかになりました。詳細にみると、安政元年の地境溝は、天保期の字境溝よりも東に移動しています。このことは、戸田邸の敷地が東に拡張されたことを示しています。

発掘調査では、地境溝は埋められた後、ゴミ穴が掘られた事実が確認されました。これを絵図と照合すると、地境溝は天保年間絵図の地境溝の位置と一致しますが、安政元年絵図とはずれています。したがって安政元年には、戸田邸の敷地を東側に拡張するため字境溝が埋められてしまっていたことが分かります。

ゴミ穴から出土した木札の一つには、「戸田式部」と墨書きされたものがありました。戸田式部は、別項に記したように19世紀に実在する上級藩士で、このゴミ穴が掘られた位置が戸田式部邸の屋敷内であったことを裏付けています。このことにより、安政元年絵図でみた戸田邸の東側への拡張は、発掘調査からも確かめられたといえます。
(古川)
武家地・町人地境の背割下水(北西から)
武家地・町人地境の背割下水(北西から)

調査区分
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