絵図にみる城下町のようす
(3)寺町 1.利長期の寺町

寺町は、城下町の片隅に集合させられた寺院群のことをいいます。そこには多く神社も含まれます。寺院は有事の際には広い境内と堅固な本堂が拠点に代用できることから、城下町防備を目的に集合したとする説が有力です。

富山城下町においては、利長が建設した慶長期城下町に寺町の存在が確認されます。

「越中国富山古城之図」によれば、三の丸の南東部、城の南を東進する北陸街道と、そこから分岐する飛騨街道の交差点の南東側に寺町の形成が確認されます。

絵図中には寺院は「寺屋敷」と表現され、東西にいくつもが並んでいます。その北側の東西方向の街路は目抜通りであり、これに沿って町屋が並んでいます。ここは後の古鍛冶町・黒木町であり、商工業者を含む門前町としての性格が推定されます。この目抜通りに交差する街道は、T字路や鉤曲となっており、正方形区画を地割して境内を形成しています。

この「寺屋敷」群は、寺町の南半分の状況です。一方北側半分は、「本願寺末寺」とその「末寺屋敷」によって占められます。これらは鼬川を含めた東半部に位置し、西半は碁盤目状の街路による長方形区画の町屋となっています。東西の街路は本願寺末寺の門前に至ることから、この両側町屋が門前町の様相を示します。ここは後の風呂屋町・堤町であり、旅籠・商業者が存在したとみられます。

このように寺町は、北側は本願寺末寺の寺中、南側は諸寺院が集合する寺町という二極構造であったと考えられます。

これは浄土真宗(西方)の勢力を重視した構造と考えることができます。加賀藩において利家・利長は本願寺との関係を良好に保ち、利長は本願寺顕如宗主と血縁関係にある古国府勝興寺と寺内を保護しています。利長が富山に移った後の慶長12年、本願寺准如宗主は富山の複数の講衆中宛に請取消息を出しています。また慶長13年、江戸に下向した准如宗主は、帰途富山に立ち寄り利長を見舞っており、利長は青山佐渡守に歓迎させています。

利長が置いた本願寺末寺は、「町里寺院神主方拝領並越中古城之旧記」によれば古国府勝興寺末寺で、これは富山藩初期の絵図にも見られます。

利長の寺町の築造は、このように本願寺勢力を保護する形で進められたと考えられます。
(ただし、この構造は正保年間の姿であることから、利長当初からの構造であったかどうかは、さらに検証する必要があります。)
(古川)
正保絵図にみる寺町構造
正保絵図にみる寺町構造