絵図にみる城下町のようす
(1)城下町の防御

城下町内を通る街道及び街路は、ずらせて交差させる「喰違」、くの字形の「屈曲」、直交しない十字路、T字路という手法を用いて見通を妨げ、敵の直線的な攻撃を防御する工夫を凝らしています。慶長期城下町の姿が残る「越中国富山古城絵図」には、喰違10箇所、屈曲7箇所、直交しない十字路2箇所、T字路26箇所がみえます。これらは城下町全体に分布しますが、特に北陸街道沿いに集中する傾向にあります。

富山藩成立期の城下町を描く「万次年間富山旧市街図」「寛文六年御調理富山絵図」には、慶長期に見られた喰違・屈曲等の手法のほかに、新たに「鉤曲」が採用されます。これは直角のクランク2箇所を設けるものです。この時期には、喰違4箇所、屈曲16箇所、鉤曲20箇所、直交しない十字路6箇所、T字路111箇所となり、慶長期の全体数45箇所に対し四倍以上の181箇所に増加しています。特色としては、鉤曲が武家地内に多く認められる傾向にあります。

富山藩成立期には、街路上の木戸は全部で23箇所が設置されています。それらを分類すると、

A 外郭堀外縁に設けられた帯状の武家地と北陸街道・主幹道に沿った町人地との境
B 北陸街道・主幹道に対面する帯状の町人地とその後背地との境

に設置されたことがわかります。Aの目的は城の外郭とその外縁の武家地内にむやみに進入させないこと、Bの目的は北陸街道・主幹道沿いの町屋通りから外れないよう誘導するためだったとみられます。

一方、飛騨街道においては、南の惣構入口に総門・木戸は設置されず、城下町に半分ほど入ったところに木戸が置かれ、さらに北陸街道との交差手前にも木戸が置かれました。
これ以外の部分には木戸は置かれていないため、基本的には目抜き通り以外の城下町内部のほとんどの部分は通行の自由度が高いといえます。

このように、富山城下町では、富山藩が成立した後に、街道の防御工夫・木戸の設置によって城下町内の防御が厳重になりました。この時期には政情はすっかり安定しており、軍事的防御というよりも、城下町内の掌握・危機管理を高めるための施策であったと考えられます。
(古川)