本丸御殿には庭園がありました。
このことを裏付けるのは、明治時代に書かれた『前田氏家乗』に添付された1枚の絵図のみです。 この絵図には、御殿の平面図とその東側に池泉・築山が存在しています。
御殿の平面図は、その構造から、初代藩主利次が寛文元(1661)年に建てた最初の御殿と推定されます。
同じ御殿絵図は、富山県立図書館に4枚があります。 |
1 |
富山城御殿絵図(富山藩文書 T092.71-2) |
2 |
富山御本城御屋形之図(前田文書265)正徳3年以後、和田子俊作成 |
3 |
利興公御代富山御本丸御絵図(前田文書287)享保8年以後 |
4 |
富山城御本丸御殿絵図(富山藩文書 T092.71-1)
明治17年吉本忠朗写 |
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いずれも庭園が描かれておらず庭園部分は空白地です。2図にのみ「御露地」と記載があります。
以上のことから、初期の御殿には北東側に庭園が存在したことがわかります。
庭園は、奥御殿北側の縁側から眺める構造でした。
池泉は、岸辺が入り組んだ「そ」の字形で、東西22m、南北20mの大きさでした。池の汀線部は、凹凸の曲線の繰り返しがほとんどですが、御殿側では直線部が見られます。池の中央部には中島が一つありました。 |
池の北東には築山があり、L字形で、頂上に平場のある土塁状のものでした。東西8m、南北10mの大きさがあります。
池泉の岸辺に護岸石が並べられていたかどうか、築山や池周辺の植栽はどうであったか、燈籠等があったかどうかなど、詳細な庭園構造は、残念ながら絵図からはわかりません。他の同年代の庭園から推定するしかないようです。
この御殿は、正徳4(1714)年に全焼し、その後天保4(1833)年に再建されました。
再建後の御殿は、焼失前にあった庭園を埋め立て、台所等となりました。
現在城址公園の本丸庭園跡地には、和風庭園が築造されました。この庭園はこのような歴史を反映したものでありませんが、当時の風情を想起させる効果があるようです。 |