桜馬場

富山城の東側に流れる鼬川沿いには、かつて桜馬場と呼ばれる馬場が存在しました。この桜馬場は佐々成政が築き、毎朝富山城兵が騎馬の訓練をした場所とされています。

「万治年間富山旧市街図」(富山県立図書館蔵)、「寛文六年十月御調理富山絵図」(富山県立図書館蔵)にはこの馬場が描かれており、鼬川に沿って南北に延びています。その位置は現在の北新町に当たりますが、ちょうど改修された鼬川の真上になるため、現存しません。

馬場は長さ約230m、幅14.4m、東西両側には土堤があったと推定されます。東側は中ほどと北端に突出部があり、馬を待機・退避あるいは折返した場所、また騎射の的を置いた場所とみられます。この土堤には桜が植えられ、それが桜馬場とよばれた理由です。

神保氏時代の戦国期富山城の様子を描いたとされる『富山之記』には鼬川河原の馬場の話があります。ここで毎朝乗馬訓練が行われたというものです。

佐々成政にまつわる桜馬場の伝承は、『越登賀三州志』『肯搆泉達録』『前田金沢家譜』にみえ、いずれも成政の家臣であった阿尾城主菊池氏が、桜馬場で成政の機嫌を損ね前田利家側に寝返るきっかけを作ったというストーリーです。『前田金沢家譜』では天正13年より前に成政が新たに「馬埓」(囲い)を作ったとなっており、天正9から12年の間に馬場が作られたと考えられます。天正13年菊池氏が離反したのは事実ですが、桜馬場での事件は成政を愚将に仕立て菊池の裏切りを弁護するための創作話とみられています。

向川原町の一角には「ババ茶屋」と呼ばれる茶屋がありました。ここはちょうど桜馬場のすぐ南東にあたり、江戸時代後期まで存在した馬場にちなんで付けられたとみられます。

馬場の方向はちょうど慶長期富山城及び城下町の地割とちょうど合致します。また佐々成政期以前の北陸街道は、ちょうどこの馬場を横切っていると推定されることから、富山城の桜馬場は、利長の城下町建設に伴い、慶長10年以降城下町の地割に合わせて築造された施設であったと考えられます。

馬場が置かれた位置は、本町にあたる主要な城下町部分のはずれにあたり、町を直接塞ぐような形となっています。馬場には両側に堤防が築かれ、西に鼬川が存在しており、さながら堀と土塁といった防御施設としても十分機能します。したがってこの馬場は、馬場本来の機能のほか、城下町の重要な場所あるいは防御が弱い場所を守る防禦的な性格も持っていたのではないかと考えられます。

その後桜馬場は、元禄12年から寛政元年の度重なる鼬川洪水により大部分が消滅したとみられます。
(古川)
桜馬場の位置
桜馬場の位置