城下を守る神
 
富山城の南に存在する日枝神社は、「山王さん」として親しまれています。かつては「山王権現」「山王社」とも呼ばれ、富山寺(ふせんじ)の鎮守でした。この山王社はかつて富山城内にあったものを佐々成政が現在地に移して城下の守護とした、あるいは日吉信仰に篤い前田利長が城内から移したとも言い伝えられています。

城下町には三大権現として他に「愛宕大権現」と「白山大権現」がありました。

愛宕大権現は、城の北側を流れる神通川の対岸、通称「船橋向かい」の愛宕町にあり、初代富山藩主前田利次が寛文元年鎮火守護の祈願所としたものです。また、白山大権現は、山王社の南、中野新町に所在し、元亀2(1571)年勧請されて後神保氏や成政・利長の庇護があったとされています。

これらはいずれも城下を守る神として、城下の入口付近に置かれました。山王社・白山社は南からの飛騨街道、愛宕社は西からの北陸街道上にあります。
一方北陸街道の東口には稲荷社が置かれました。万次2年に現在地に鎮座したとされます。

また、「万治年間富山旧市街図」には、城下町の西端に「楪葉明神」があります。現在は神通川河川敷内になります。これと同名の神社は見当たらず、由来等は不明です。

城下の東、古寺町の時宗浄禅寺境内には、寛文5年(越中史料では寛文10年)利次が祈願所として天満宮を設置したとされます。

城下北東の岩瀬街道沿いには千歳社があります。創建年代は不明で、戦国期佐々成政が置いた城下南北の神明社のうち北の神明社とされ、寛文元年の城下町整備の際現在地に遷座したとされます。

これらの配置をみると、愛宕社は富山城本丸中央から北西(乾)方向にあたります。一方楪葉明神と千歳社を結んだラインは富山城本丸中心を通っており、天満宮は富山城本丸中央からみて南東(巽)方向にあたります。

これらのことは、神社の配置にあたって、本丸の藩主御殿の位置が何らかの形で意識されている可能性があります。清明印と考えられる星形の大型刻印が、藩主御殿の南西方向の石垣に刻まれていることも、このことと関連があるかもしれません。(→「石垣の刻印」参照)。
(古川)