史料・絵図から見た富山藩上屋敷
史料・絵図から見た富山藩上屋敷
 
富山藩上屋敷の敷地は、本藩である加賀藩から本郷邸(拝領地約103,822坪)のうち、北東部に位置する約11,088坪を分与されたものでした。この富山藩上屋敷の全体を描いた絵図面は、現在のところ富山県立図書館に3点確認されています。このうち、年代がはっきりしている安政5(1858)年の絵図面から、富山藩上屋敷の内部をみていきましょう(図1)。
図1富山藩上屋敷絵図の空間利用
図1 富山藩上屋敷絵図の空間利用
大名屋敷は、一般的に門・塀・表長屋などによって、二重に閉じた空間となっており、内側を御殿空間、外側を詰人(つめにん)空間に分けることができます。富山藩上屋敷も同様の造りで、御殿空間と詰人空間の境界は、東半分は自然地形を利用し、西半分は馬場で区切るという工夫がとられています。
 
御殿内部は、藩主や重臣の応接や、家中が政務をとる空間で構成される表御殿と、藩主とその家族や奥女中らの住む奥御殿、さらに庭園や藩主も使う馬場などで構成されていました。一方の詰人空間には、家中の住居や役所が整然と配置されています。家中の住居は御貸(おかし)小屋・長屋と呼ばれ、藩が家中のために用意した、いわば公務員住宅のようなものです。そのため、住居の広さは、居住者のランクに比例していました。
 
藩邸外部への行き来は、南の表門と北東の通用門が使用されました。このうち家中が日常的に使用したのは通用門でした。この絵図に描かれている通用門とほぼ同じ位置に、現在、東京大学の池之端門があります。通用門は、下谷茅町2丁目という町人地に接していました。この町内には、国元富山と江戸を結ぶ三度飛脚屋のほか、また富山の町人や十村(とむら)が江戸を訪れたときに使用する旅宿がありました。また、近くにある浄円寺の庵主(あんしゅ)は海岸寺(現在の富山市梅沢町)住職の弟子が務めていたなど、通用門の周辺には富山と縁のある人たちも暮らしていたことが分かっています。
 
絵図面を見てみると、上屋敷約11,088坪の敷地の大半は、大名やその家族、家中の住居で占められていることに気づきます。彼らの日々の生活は、藩邸外部にある富山藩領の町人・百姓や、京都・大坂・江戸の町人たちに支えられて成り立っていました。
(小松)