江戸富山藩邸の暮らし・行事
江戸詰め家中の生活道具
 
江戸藩邸で暮らした家中は、江戸に定住している「定府(じょうふ)」と、本拠地は国元富山にあって、藩主から命じられて1、2年程度の短期間、単身で江戸に滞在する「江戸詰め」の2種類がありました。このうち、江戸詰めを命じられた若年寄(わかどしより)杏守右衛門(きょうもりえもん)の記録「若年寄(わかどしより)役成(やくなり)(かつ)江戸表(えどおもて)出府(しゅっぷ)一巻(ひとまき)詰中御用(つめちゅうごよう)私用之手(しようのて)(びかえ)」(富山県立図書館所蔵、市川文書60)を紹介します。
 
この文書には、嘉永5(1852)年8月24日に若年寄就任と江戸詰めを命じられた杏守右衛門の出府(しゅっぷ)準備から江戸滞在中に必要な諸手続き、若年寄の役務内容などが記されています。
 
富山藩の若年寄の定員は9名で、このうち江戸詰めは2名でした。若年寄は家老に次ぐ重役で、藩政の最高機関である寄合所の構成員で、藩主と表の諸役職を取り次ぐ御用人を兼務しました。この他にも、藩主やその家族の生活全般に関わる奥御用所、藩財政に関わる御勝手方、海防軍備に関する海防方御武器等調理懸(かいぼうかたおんぶきなどちょうりがかり)、藩校、無組や役人組などの家中を支配・統轄する役務を分担していました。
 
杏守右衛門は、同役の小幡左橘(おばたさきつ)・瀧川玄蕃(げんば)と交代で、嘉永5年9月17日より約1年半の間、同役の奥村杢右衛門(もくえもん)と2人で江戸詰めを務めました。杏が江戸に到着をしたとき、小幡はすでに帰国の途についており、瀧川と奥村が出迎えてくれました。藩邸内の家中の住まいは居住者の役職、ランクによって決められるため、杏は小幡の住居を引き継いだとみられます。そのことをうかがわせる領収証が残されていました。領収証は杏が江戸に到着してから10日余り経過した9月29日付で、藩の作事所(さくじしょ)畳方の宇津井徳三郎から杏の家来松永亀吉にあてて、43畳分の畳と炊事関係の道具代として計3両1歩2朱と238文を受け取ったと記されています。
費目
畳43畳 3両1歩2朱 4匁
表座敷 9畳
次ノ間 8畳
居間 6畳
次ノ間 3畳
式台 3畳
小性部屋 1畳
坊主畳 13畳
手水鉢・椀たらへ・杓子2本 332文
火消かめ 180文
火継2つ 2朱 100文
爐ふち1 150文
やくら1 700文
鉄火箸1丁 72文
手洗かめ 72文
手洗たらへ2 300文
平鉢1・味噌かめ1 180文
五徳1 280文
片口2 100文
摺鉢 124文
炭取2つ 100文
飯鉢1 512文
鉄鍋8人 2升計 5匁3分
鉄鍋5人 1升計 4匁3分
(備考)
畳以外は2割引で購入。また、総額は3両1歩2朱と238文という領収証が作成されている。史料には計算式も記されているが、計算が合わないため、ここでは割愛した。
表1 江戸詰め家中の生活道具
この領収証の冒頭には、「小幡左橘(おばたさきつ)居固屋(いごや)(のこ)()(そうろう)道具(どうぐ)宇津井徳三郎(うついとくさぶろう)(あつか)いにて()()(そうろう)書付(かきつけ)()(とお)り」と記されており、小幡が住まいにそのまま残していった品々を、杏が宇津井を通して入手したことがわかります。杏は畳以外道具類については額面の2割引で入手しました。
 
家中の住まいについては、本藩の加賀藩では、建物の本体にかかわる壁・屋根・垣根・柱・井戸については藩(作事所)が行い、消耗品である畳・(すのこ)については利用者である家中が負担していました。富山藩でも同様であったとみられ、畳は消耗品の扱いで利用者が負担していました。この領収証から、藩の作事所畳方が、家中が必要とする畳を調達し、その費用を徴収していたこと、さらに道具類の代金までも徴収していることがわかります。ところで、これらの道具類は、もともと誰の所有だったのでしょうか。小幡個人それとも藩の備品という扱いでしょうか。領収証からはそれを判断することはできませんが、いずれにしても藩の作事所が仲介する形で家中の江戸での生活基盤が調えられつつある様子を垣間見ることができます。
 (小松)