江戸富山藩邸の暮らし・行事
富山藩邸の家紋瓦
 
寛永16(1639)年に富山藩と大聖寺藩が成立します。それぞれが、加賀前田家でそれまで使っていた梅鉢文から派生した家紋を使うようになります。加賀前田家が幼剣梅鉢文、富山前田家が丁子(ちょうじ)梅鉢文、大聖寺前田家が瓜実(うりざね)梅鉢文です。
 
江戸藩邸では、瓦当面に富山前田家の家紋である丁子梅鉢文がつけられている軒丸瓦、桟瓦、鬼瓦が出土しています。
 
丁子梅鉢文軒丸瓦(写真1)を、江戸藩邸と富山城で比べてみると江戸藩邸の方がほっそりとした丁子が使われています。加賀前田家でも、家紋である梅鉢文や幼剣梅鉢文がつけられている軒丸瓦が多く出土していますが、丁子梅鉢文瓦との違いがよく分からないものも多くあります。軒平瓦は千歳御門で見られるような菊文、菊葉文がつけられたものは出土していません。
 
写真1丁子梅鉢文軒丸瓦   写真2丁子梅鉢文桟瓦   写真3丁子梅鉢文鬼瓦
写真1 丁子梅鉢文軒丸瓦   写真2 丁子梅鉢文桟瓦   写真3 丁子梅鉢文鬼瓦
 
丁子梅鉢文桟瓦(写真2)は江戸藩邸では見られますが、富山城では見られないようです。写真3は鬼瓦の一部で、中央部分に丁子梅鉢文がついています。これも、富山城では見られないようです。
 
他藩の江戸藩邸と比べると数多くの家紋瓦(梅鉢文など)が出土しています。一般的には家紋瓦よりも三巴文の瓦が使われていました。明らかな丁子梅鉢文のついている瓦の数は多くはなく、建物の一部分のみに使われていたと考えられます。使われていた期間もあまり長くないのかもしれません。また、瓦当文様や胎土の違いなどから、江戸藩邸の瓦は国元から運ばれたのではなく江戸周辺で焼かれた瓦が使われていたと考えられています。隅田川沿岸の浅草今戸周辺には瓦を焼いていた達磨窯があり、「江戸名所図会」(江戸時代後期 天保年間)などの絵図にも描かれています。まだ、細かい検討が行われていないため、どこで焼かれた瓦かははっきりしませんが、このあたりから運ばれたのかもしれません。
(大貫)