江戸富山藩邸の暮らし・行事
出土した武家儀礼の道具
 
写真1武家儀礼道具1
写真1 武家儀礼道具1
写真の陶磁器は、医学部附属病院看護師宿舎地点の調査で出土した伊万里焼です。調査地点は、幕末に描かれた富山藩邸の絵図と比較すると、藩邸内御殿空間の北東部にあたります。調査の結果、3枚の生活面が確認され、いずれも多量の焼土(しょうど)や地面の変色など罹災(りさい)した痕跡が認められました。各生活面は出土した遺物の年代より、上面が文政8(1825)年もしくは弘化3(1846)年の火災、中央面が元禄16(1703)年の火災、下面が天和2(1682)年の火災にあたることが判明しました。
写真の遺物は元禄16年の火災禍(かさいか)によって破損し、廃棄された陶磁器です。これらは製作途中の地下室に廃棄されていました。写真1の1、2は有田産の染付(そめつけ)大皿で口径45cmと大きな製品です。4の青磁大皿もそれよりは一回り小形ですが、口径35cmになります。3の染付鉢も口径33cm、器高13.5cmの大形の鉢です。このような大形の器は、加賀藩邸、大聖寺藩邸をはじめ大名屋敷からの出土例が多く、大名が宴会を行う時に用いられたと考えられています。
写真2武家儀礼道具2
写真2 武家儀礼道具2
また写真2の5は色絵中皿で、複数枚がまとまって出土しました。6の染付皿、7の猪口も複数個がまとまって出土しています。このように同じ形、文様で揃えた食器セットは、藩主やその家族などを含む大人数の飲食で使用されたと考えられます。大聖寺藩邸の調査では、天和2年の火災による一括廃棄資料から、60枚以上の同一製品が出土した事例も認められます。
 
江戸藩邸では節句などの年中行事、人生儀礼、法事、交際などの諸行事が度々行われていた記録が残されており、ここに紹介した大皿や揃いの食器は、藩邸内で頻繁に執り行われていた様々な行事の食器として使用されていたと考えられます。また出土した陶磁器類は、出土状況から2代藩主正甫(まさとし)の代、天和の火災後に儀礼用として(あつら)えられた道具と思われます。
(成瀬)