富山藩邸の発掘調査
富山藩邸の発掘調査概要
 
富山藩邸の発掘調査は1984年の医学部附属病院中央診療棟地点から始まり、これまで12か所で行われてきました(2015年7月現在)。面積の合計は約15,000平方メートルにもおよび、富山藩邸全体の約4割にあたります。こうした調査の積み重ねにより、当時の様子が徐々に明らかになってきました。
 
富山藩邸は加賀藩邸の北東にあり、東側に不忍池(しのばずのいけ)を臨む標高15m前後の台地の縁辺に立地しています。藩邸内は中央に藩主と家族が暮らす「御殿空間(ごてんくうかん)」と、その周りを囲うように家臣団が生活する「詰人空間(つめにんくうかん)」の大きく2つの空間に分かれていました。
 
「御殿空間」の発掘調査の成果では、敷地の北側にある国際科学イノベーション総括棟新営地点(148)や医学部附属病院看護師宿舎地点(19)から、礎石を用いた建物跡や土蔵跡などが発見されています。この建物群を絵図と比較することにより、「御殿空間」のなかでも奥御殿にあたる建物であることがわかりました。また中国や朝鮮といった高価な舶来(はくらい)陶磁器なども出土し、御殿での暮らしぶりが垣間見えます。
 
御殿の表にあたる医学部附属病院入院棟U期地点(113)は、残念ながら大学建物によって多くが失われていましたが、南側にある大聖寺藩邸との境となる大溝や道路、崖部分に作られた石垣の一部を確認しました。この東側にある医学部附属病院看護師宿舎U期地点(48)・同V期地点(74)では、多くの植栽痕(樹木の移植の際に掘られた円形の穴)が目にとまります。これらは御殿から見える前庭の植樹と考えられます。
 
「詰人空間」にあたる加賀藩邸との境が西にあるクリニカルリサーチセンターA棟T期地点(125)では、長屋に伴う地下室が多数検出されています。また非常に大型のゴミ穴からは、碗や徳利といった日常的な食器類が大量に出土しました。このほか魚骨や貝といった食物残滓(ざんし)も多く、これらの分析から江戸における富山藩士の食生活の復元が期待されます。
 
これまでの発掘調査に文献調査の成果が加わったことにより、富山藩邸研究は次の段階を迎えました。今後も広大な富山藩邸から発見される多くの遺構・遺物群を多角的に(とら)え、研究を蓄積していくことが重要と言えるでしょう。
主な藩邸の調査地点
(小川)