富山藩邸の発掘調査
藩邸の土地利用6
富山藩邸の境
 
東京大学には、江戸時代富山藩をはじめ、加賀藩、大聖寺藩、越後高田藩、水戸藩の大名屋敷(藩邸)がありました。そうした大名屋敷が連なる街並みというと、皆さんはどんな景観をイメージするでしょうか。
 
残念なことに、今の東京には大名屋敷は残っていませんが、東京大学の赤門(加賀藩御守殿門)や、東京国立博物館に移築された鳥取藩の表門などが、大名屋敷門でした。そこから続く漆喰(しっくい)海鼠壁(なまこかべ)に瓦葺きの表長屋が、屋敷をぐるりと取り囲んだ大名屋敷外観は、浮世絵や屏風などで目にしたことがあるかもしれません。
 
富山藩上屋敷はおよそ約11,088坪(約3.6ヘクタール)、広大な東大キャンパスの中では、医学部附属病院の北半分にあたります。当時の地図を見てみると、北側と東側は寺町や下谷茅町2丁目に接しています。南側は東半分が寺院と接し、西半分が大聖寺藩邸と接しています。西側は加賀藩邸と接していました。そのうち西側と南側の屋敷境(やしきざかい)の様子が発掘調査から分かってきました。


東大病院クリニカルリサーチセンター(CRC)地点は、富山藩邸と加賀藩邸の両方にまたがっていたことから、当初より藩邸の屋敷境を検出することが課題でした。調査区西側で検出した南北方向に延びる溝は、長さ22.4mでほぼ調査区を縦断しています。幅は0.5m、深さは0.7mの素掘りの溝です(写真 1)。これが富山藩邸西側の屋敷境で、加賀藩邸と接していました。溝の底部には所々に柱穴が掘られていたことから、柱穴に柱をすえた塀だったようです。


中央診療棟地点では南側の屋敷境が出土しています。素掘りの溝ですが部分的に杭が残っていたので、CRC地点と同様に塀だったことがうかがえます(写真 2)。この南側の屋敷境は天和2(1682)年の火災までのもので、火災後の大聖寺藩邸との屋敷境は石組の下水溝へと変化することが発掘調査で判明しています。


CRC地点から100mほど南に位置する外来診療棟地点では、加賀藩邸と大聖寺藩邸との屋敷境が見つかっています。この屋敷境は柱穴列でしたので、やはり柱穴を掘り、支柱をすえた塀、あるいは柵だったことがわかります。
写真1富山藩邸西側の屋敷境(CRC地点)
写真1 富山藩邸西側の屋敷境(CRC地点)
写真2富山藩邸南側の屋敷境(中央診療棟地点)
写真2 富山藩邸南側の屋敷境
(中央診療棟地点)
 
このように加賀藩邸との屋敷境は、富山藩・大聖寺藩とも比較的簡単な造りだったことが発掘調査によってわかりました。どちらも道に面していない、比較的目立たない場所の屋敷境ですが、本藩−支藩という関係を反映している可能性もあります。
 
ところでCRC地点の調査では、地境(じざかい)溝から40mほど東側で南北方向に延びる堀を検出しました。南北の長さは不明ですが、幅2.2m、深さ1.3mと大型です。
 
1藩邸の絵図『江戸御上屋敷図』(富山県立図書館蔵・安政6年)をみると、藩主が暮らし、藩庁としても利用されていたエリア(御殿空間)と、藩士たちの長屋が設けられていたエリア(詰人空間)とは、青い線で表現された堀で区切られています。検出した堀はこれにあたる可能性が高いです (堆積土の観察では水が貯まっていた痕跡はみられませんでした)。
 
加賀藩邸との屋敷境よりも、藩主と藩士の生活空間の区画の方が堅固だったという可能性を示す調査成果は、富山藩邸内の暮らしを復原する上で注目されます。
(追川)