富山藩邸の発掘調査
藩邸の土地利用4
地形と書院(しょいん)の庭園造成
 
不忍池周辺の大名屋敷
不忍池周辺の大名屋敷
『安政改正御江戸大絵図』(国立国会図書館所蔵、安政5年)に加筆
 
富山藩上屋敷のある台地は地質学的には本郷台地と呼ばれていますが、古くは忍ヶ岡(しのぶがおか)(上野の岡)の向こう側の岡という意味で向ヶ岡(むこうがおか)と呼ばれました。東京大学池之端門の南側に(やしろ)があり、鳥居の額束(がくづか)に「向岡 忍岡 総鎮守境稲荷神社」と彫られています。境稲荷神社は「忍ぶ岡 向ふる岡の境なる 神のやしろは松の下谷」と()まれ、向ヶ岡と忍ヶ岡、二つの岡の境にある立地が名称の由来になっています。「神のやしろは松の下谷」は富山藩上屋敷の隣に稲荷があるという意味です。向ヶ岡の範囲は地形を検討すると、北は現在の東京メトロ千駄木駅(せんだぎえき)辺りから南は駿河台(するがだい)辺りまでです。向ヶ岡には富山藩上屋敷、水戸藩駒込邸、高田藩中屋敷などの大名庭園が配置され、これらの大名屋敷の庭園は台地の突端(とったん)に配置されました。
 
富山藩上屋敷を訪れた寛政(かんせい)の改革で知られる松平定信(まつだいらさだのぶ)は、書院の庭園の景観について「けふハ、かねてより、ひたすらいひ給へバ、とやまのたちへ行。北のかたも行給ふ。そのよろこび給ふさまミてハ、とくにも行ましものをと思ふ。(中略)高どのも眺望よし。忍バずの池ハ、こゝの為にまうけやうにて上のゝ山などより、はるかの家々かぎりなふミゆ。書院の庭に、大なるもミの、下枝つとさし出たるハ、いとめづらし。この庭ハ小堀政一のつくりしとかいふ。むかしより火のわざハひいかゝらず。いとふるきたちにて、かハらハなく、たゝ(だ)板ぶき也。」と『花月日記(かげつにっき)』文化11(1814)年9月29日に記しています。筑地にあった名園浴恩園等の作庭でも知られる定信は「とやまのたち」(富山藩上屋敷)を訪れるのを楽しみにしており、書院からの眺望は上野の山、町屋が遠くまで眺められ、不忍池はこの庭園のために設けられたようだと評しています。作庭は小堀政一(こぼりまさかず)(遠州(えんしゅう))とも言われていることに触れ、庭園のモミの巨木、古い板()きの建物について記しています。
 
明治期の陸軍参謀(さんぼう)本部測量原図と富山藩の絵図、現在の地図を重ねると、庭園は東京大学看護師宿舎敷地の台地の東端に配置されていました。明治時代になり建物の大部分が撤去されたものの庭園西側の書院は医学部の「別課教場(べっかきょうじょう)」として使用され、後に三四郎池の東側の築山(つきやま)の上に移築され山上会議所(さんじょうかいぎしょ)として使用されます。
 
陸軍参謀本部測量原図の等高線を検討すると、庭園の範囲が斜めに切り土されています。もともと平坦だった台地をならし、約10度の傾斜を作り出して、造成前には書院の縁側から全体の5分の3程しか見渡せなかった不忍池を、全体を見渡せるようにしています。絵図によると庭園の北側と南側は塀で囲まれています。塀は他の邸内の施設、北側と南側の景観を(さえぎ)る効果がありました。
造成に伴う富山藩上屋敷書院から見た不忍池の景観変化
造成に伴う富山藩上屋敷書院から見た不忍池の景観変化
富山藩上屋敷書院跡からの眺望範囲の復元
富山藩上屋敷書院跡からの眺望範囲の復元
(財団法人日本地図センター発行国土交通省国土地理院所蔵
2011『参謀本部陸軍測量局五千分一東京図測量原図』に加筆)
(原)