富山藩邸の発掘調査
藩邸の土地利用3
表門付近の傾斜地利用
 
不忍池を臨む本郷台地の東縁辺に位置する富山藩邸は、東側を流れる谷田(やた)川の浸食よって形成された起伏が残されています。こうした自然地形に富む屋敷地を上手に利用するため、江戸時代には様々な土地の改変を行っていました。
 
表門のある屋敷地南側にあたる医学部附属病院入院棟U期地点(113)の東側は、現在は崖のように急峻(きゅうしゅん)ですが、本来は緩やかな斜面地であったことが埋没谷の発見によって明らかとなりました。こうした坂のような使いづらい場所では、斜面を切り出して高低差のある2つの平坦面を設ける「段切(だんぎ)り」と呼ばれる土地造成を行い、限りある屋敷地を有効に使っていました。
写真1「段切り」と自然地形の傾斜
写真1 「段切り」と自然地形の傾斜
絵図で緑色の土手のように描かれている「段切り」は、医学部附属病院看護師宿舎U期地点(48)でも確認されていますが、注目されるのは表門に近い場所にあたる医学部附属病院入院棟U期地点(113)の「段切り」です。遅くとも天和2(1682)年の大火の前には高・低の2段が構築されており、この段差を利用した溝状遺構も発見されています。
 
この後「段切り」は、元禄16(1703)年頃までには切り取った部分を埋め戻すかのように、緩やかに盛土されていきます。そして比較的平坦になった面には石垣を築いています。
写真2石垣石裏込め
写真2 石垣石裏込め
医学部附属病院入院棟U期地点(113)で見つかった石垣の表部分は明治期に抜き取られていましたが、裏込め部分が良好に残っていました。石垣は南北12m以上、高さ1.1mの最低3段以上の石積みがなされています。石は割石を中心として、丸石のほか、間知石と呼ばれる石垣石や石造物の一部なども用いていました。基礎部分には木の根太(ねだ)などはなく、根石とみられる方形の石が部分的に確認されました。石垣の南側は調査区外へと続きますが、北側は盛土の傾斜が高くなっていく付近で無くなっています。この特徴は、19世紀に描かれた富山藩上屋敷絵図の表門東側にある石垣と一致しており、18世紀に構築された石垣は19世紀まで存在していたことが推測されます。
 
こうした土地利用の変化は、表門の位置が東向きから南向きへと変化したことに関連していると考えられ、発掘調査によってその実態が明らかになりつつあります。
(小川)