富山藩邸の発掘調査
藩邸の土地利用2
富山藩邸内の地下(むろ)
 
これまでの江戸富山藩邸内の調査では、多くの地下室が見つかっていますが、使った目的がはっきり分かるものは、少ないのが現状です。その中で多少なりとも、使用目的が推測できる地下室を紹介します。
 
江戸時代には多くの火災があったことが、文献記録に残っています。天和2(1682)年には、通称「八百屋お七火事」により富山藩邸は、隣接する本藩の加賀藩邸とともに、火災被害を受けています。藩主の居住する御殿を含め、上屋敷のほとんどを焼失したことが記録され、発掘成果からもその痕跡が確認できます。
 
新たな上屋敷は、元禄2(1689)年に再建されますが、わずか14年後の元禄16(1703)年に、小石川の水戸屋敷から出火した通称「水戸様火事」により、再度上屋敷を焼失します。「火事と喧嘩(けんか)は江戸の花」と言われますが、このように2度も続けて上屋敷を焼失したことで、富山藩邸に火災対策を講じる必要性を、強く意識させたと思われます。
 
地下室は、江戸時代の文献や絵図面には「穴蔵」と記載され、商家では火災対策として広く利用されたことが分かっています。上述した加賀藩邸の絵図面には、「穴蔵」と描かれている部分が散見できます。「穴蔵」は長屋など居住者の庭部分に描かれているもの、御殿など屋敷の内部に描かれているものなど違いはありますが、多くは正方形に描かれています。また屋敷の内部の「穴蔵」は、建物の間のわずかな地面の部分に、作られていることが分かります。
 
写真1大型の地下室""
写真1 大型の地下室(上が南)
図1大型の地下室の平面図・断面図
図1 大型の地下室の平面図・断面図
写真1・図1は2013年の入院棟U期地点の2次調査で、発見された地下室です。正方形の入口部分と部屋である長方形の遺構が2基、東西方向に連なって検出されました。ともに長軸は10m以上、深さ4.5m以上と大型の地下室です。この2基の遺構の廃絶年代は18世紀前半と考えられますが、ここから出土した多くの同一種類の陶磁器からは、不要物を一時期に整理したと思われます。このことから2基の遺構は、同時期に使用されていた可能性があり、構築時に強い空間的な意識があったと思われます。また入口は梯子(はしご)昇降(しょうこう)することから、常用には適していないと思われます。
 
調査地点は藩主の居住する御殿内に位置しますが、絵図面から御殿は所狭(ところせま)しと部屋が設けられ、オープンスペースは中庭などを除き、多くはありません。その限られた空間である御殿内に、わざわざこのような大きい地下室を作った意味を考える際に、一つの絵図がヒントになります。吉原遊郭で、安政大地震の際に遊女たちが、床下の穴蔵へ梯子を使い逃げ込む様子を描いたものです。穴蔵はまだ奥へ続いているようにも見え、今回見つかった地下室と似ています。

おそらくは富山藩邸でも、頻発する火災に備え緊急に大切なものを避難させるスペースとして、建物の下にこのような穴蔵を構築したのではないでしょうか。
図2『安政見聞誌明』
図2 『安政見聞誌明』
(香取)