富山藩邸のその後
教場(きょうじょう)となった表御殿
 
富山藩の上屋敷がおかれていた土地は、加賀藩が幕府から拝領(はいりょう)した本郷邸の一部を分与(ぶんよ)されたものでした。そのため、明治になって武家地を管轄することになった東京府が、加賀藩に対して本郷邸の上地(あげち)を命じたことで、富山藩上屋敷部分も一緒に召し上げられ、明治4(1871)年6月以降は旧下屋敷(私邸(してい)、現在の東京都台東区入谷)に移りました。
 
このとき、富山藩が東京府に対して、上屋敷御殿の畳・建具の移送や能舞台の下げ渡しを願い出た記録が残されています。東京府は、前者の畳・建具の移送は許可しましたが、後者の能舞台の移築については不許可としています(富山県立図書館所蔵、前田文書28)。東京府はこの年の3月に、各藩に対して、藩邸の外囲・門・塀・長屋向、玄関、表座敷、本建(ほんけん)(一時しのぎではない本格的な建築、本建築の意)を撤去する場合には、あらかじめ伺い出た上で行うように命じており(国立公文書館所蔵「公文録」43・明治4年3月東京府伺)、能舞台の下げ渡しはこれにふれてしまったものとみられます。東京府が各藩に対してこのように命じた理由は2点あり、1点は邸宅を撤去することで荒地となり体裁が悪くなることを問題視したこと、もう1点はこれらの建造物を跡地に設ける新政府の諸施設に転用するためでした。これは新政府にとって経費の削減となり好都合なことでしたが、各藩にとっては多額の費用をかけて設けた立派な御殿建築を移築することも、また建材を売却して移転費用その他にあてることもできず、苦しい思いをしたことでしょう。しかし、この命令によって、旧富山藩表御殿の玄関および書院などの応接空間部分は壊されずにそのまま残されることになりました。
 
新政府用地となった旧加賀藩本郷邸は、その後司法省、東京府を経て、明治6(1873)年5月に文部省用地となり、6月には旧富山藩上屋敷部分に西洋風の外国人御雇(おやとい)教師の住まい(教師館)が建てられました。また、翌7年11月には東京医学校(現在の東京大学医学部)が移転して来ることが決まり、建設が開始されました。撤去されずに残った旧富山藩表御殿は、明治8年5月に設置された東京医学校の通学生用の教場「別課医学教場」として転用されることになりました(図1)。
東京大学医学部一覧
図1 東京大学医学部一覧(東京大学医学図書館所蔵)
※赤丸で囲んだところが、別課医学教場
図2東京大学医学部一覧 図3江戸御上屋敷絵図
図2 東京大学医学部一覧
別課医学教場の間取り
図3 江戸御上屋敷絵図
(富山県立図書館所蔵 前田文書274)

黄緑色で囲った部分がのちに教場に転用
図2は、明治13(1880)から14(1881)年の「東京大学医学部一覧」(東京大学医学図書館所蔵)所収の別課教場の間取図ですが、これと図3の表御殿を比較してみましょう。ここから、能舞台は撤去され、大書院・奥書院・白書院・大広間・溜の間などがあった部分は間取りを変更して、教場に転用されたことが判かります。
 
この別課医学教場は、その後明治26(1893)年に心字池(しんじいけ)(現在の三四郎池)近くに移築され、山上会議所(さんじょうかいぎしょ)と命名され、大正12(1923)年9月1日に発生した関東大震災で焼失するまで、総長室・事務局などとして使用されました。
図4山上会議所
図4 山上会議所
(小川一真編「東京帝国大学」明治33(1900)年、国立国会図書館所蔵)
(小松)