富山藩主 前田家墓所 長岡御廟所の調査
4.墓所の石造遺物
(3) 手水鉢ちょうずばち
 
初代利次墓のある西群墓所への参道中ほどに、1基の手水鉢があります。

明治18年吉田有宣が作成した「長岡御廟所御代々御墓並重臣ヨリ献灯姓名録」(富山県立図書館蔵)には、現在ある手水鉢と同じ位置に手水鉢の図が描かれています。

手水鉢の石材は石灰質砂岩で、大田石・岩崎石と呼ばれる高岡・氷見海岸部から調達されたものです。自然石手水鉢で、板状の自然石のもつ野趣が生かされた「一文字形」に分類されます。東西1.9m、南北0.6m、地上高0.9mで、上面は平坦に整えられ、中央に楕円形の水穴があります。

水穴は、長さ124cm(4尺1寸)、幅は30cm(1尺)から35cm(1尺1寸5分)、深さは中央で19.5cm(6寸5分)、底面は細かいハツリ整形を行って中央をくぼませ、皿形の湾曲を作り出しています。水穴中央後部には近年穴があけられ水道管が接続されました。

北側となる正面には、楷書体の文字が3行にわたり陰刻されています。
 
「延寶三乙卯才七月七日
奉佛納 龍光院殿
為御供養献之 村勘左衛門一寛」
 
この銘文により、手水鉢は墓所造立当初の延宝3(1675)年に、利次(龍光院)の供養のため村勘左衛門一寛により寄進されたことがわかります。一寛は、利次代の慶安4(1651)年3千石を拝領し家老となり、寛文8(1668)年病気を理由に隠居しました(『富山藩士由緒書』)。延宝3年は隠居後7年を経過しており、元家老としての立場で手水鉢を寄進したとみられます。

水穴は、参拝など利用の際に清掃され、清水を入れられました。その清水は、明治18年献灯姓名録にマークが表示されている井戸から調達されました。現在はコンクリートで補強され、使用中止となっていますが、ほぼ絵図の位置に現存しています。
(古川)
 
手水鉢実測図
手水鉢実測図
手水鉢写真
手水鉢写真