富山藩主 前田家墓所 長岡御廟所の調査
4.墓所の石造遺物
(2)寄進燈籠
3.過去データとの比較
 
目的
藩士寄進の燈籠は、藩の重臣が藩主毎に寄進したものであり、かつては、参道の両側に整然と配置されていました。しかし、明治31年の改修工事やその後の墓地の一部開放によりばらばらとなり、往時の姿を留めていません。

寄進燈籠の位置を記したものとしては、明治18(1885)年の「重臣ヨリ献灯姓名録」と昭和43(1968)年の富山県立北部高等学校地歴同好会の調査図があります。

「重臣ヨリ献灯姓名録」は、往時の配置を正確に描き、寄進燈籠477基に旧臣の名前を記したものです。これには56基の墓前燈籠も描かれており、全533基の燈籠が確認できます。

「北部高校調査」の図は、ほぼ現在の配置を記しており、藩主と寄進者名を調査し、表にまとめており、墓前燈籠も含めて537基(寄進燈籠464基)の燈籠の存在が確認できます。

今回の調査では、北部高校調査の配置を基本とし、新たに番号をつけ、寄進燈籠の藩主名、寄進者名を調べて表にまとめました。それを基に、「北部高校調査」との差異、「重臣ヨリ献灯姓名録」との差異、変動などを調査しました。

北部高校調査時との比較
現在は464基の寄進燈籠があります。この数は北部高校調査の数と同じですが、二代、三代、五代、七代以外は1基ずつ増減があります。また、寄進燈籠の配置にも違いがあります。「北部高校調査」では、北群墓所山門前に7基の燈籠が確認できますが、現在は山門前に燈籠は存在しません。7基のうち5基は、北群墓所山門と利次墓参道上の泉水の間にあることが確認できました。残り2基の内、1基は墓地案内板の裏側に配置されていますが、もう1基は確認できませんでした。これらはいずれも昭和43年以降に移動したものと考えられます。

北部高校調査では「不明」とされた2基のうち、1基は十代利保に寄進した近藤掃部助光美の燈籠であり、「重臣ヨリ献灯姓名録」でも確認できましたが、もう1基は十一代利友に寄進されたことが確認できたのみで寄進者名は判読できませんでした。
表1 寄進灯篭数比較表
(北部高校調査)
代・藩主 北部 現在
1利次 41 40
2正甫 35 35
3利興 26 26
4利隆 25 26
5利幸 35 35
6利與 32 33
7利久 29 29
8利謙 37 36
9利幹 46 45
10利保 59 60
11利友 85 86
不明 14 13
464 464
 
「重臣ヨリ献灯姓名録」との比較
「重臣ヨリ献灯姓名録」を見ると、寄進燈籠は藩主墓に近い方から、概ね役職順に並べられていましたが、現在、往時の配列を一部として留めている部分はありません。

今回の調査で無くなってしまった燈籠は最低でも13基あるということがわかりました。その無くなった燈籠の行方ですが、基礎の部分を7代利久墓前の墓道の石として使用しています。墓道には全部で21個の石が使われており、その内11個は露出している部分が寄進燈籠の基礎と同じ表現で造られていることが確認できました。これらは自然倒壊、もしくは移動させる際に竿部分などが破損してしまったために、基礎部を再利用したと考えられます。
表2 寄進灯篭数比較表
(重臣ヨリ献灯姓名録)
代・藩主 重臣ヨリ 現在
1利次 43 40 3
2正甫 35 35 0
3利興 33 26 7
4利隆 26 26 0
5利幸 36 35 1
6利與 33 33 0
7利久 33 29 4
8利謙 38 36 2
9利幹 48 45 3
10利保 64 60 4
11利友 88 86 2
不明 × 13  
477 464 13
(蓮沼)
七代利久前墓道
七代利久前墓道
  寄進燈籠基壇
寄進燈籠基壇