富山藩主 前田家墓所 長岡御廟所の調査
6.考察編
(4) 墓所の築造過程
 
(2)六代から十一代

1.六・七代墓の追墓(図1)
六代利與墓・七代利久墓はともに北群にあります。
六代利與墓は二代正甫墓と墳墓前面を同じくし、七代利久墓は三代利興墓と墳墓前面を同じくして、それぞれ小区画を作っています。このとき、それぞれの区画において、2つ並んだ墳墓の中間に参道を付け替えたと考えられます。
特に注目されるのは、六代利與墓築造の際に、それまで基軸となっていた正甫墓参道が途中で分断され、新しく東方向に屈曲させたことです(図2)

またこれに伴い、北群墓所と西群墓所の間に土塁が新たに設けられ、2つの墓域を明瞭に分けました。このことは、その後の墓所内追墓のあり方に大きな意味をもつものといえます。 


四代から七代の参道の変遷
図1 四代から七代の参道の変遷
2.八代以後の築造
八代以降の追墓は、西群墓所において行われました。

四代利隆墓の南に八代利謙墓、五代利幸墓の南に九代利幹墓が築かれ、十代墓、十一代墓も同様の順序で交互に追墓されました。

各墓前面の位置については、隣接する墓と同じにしています。
この過程で、西群墓所前面の参道は、追墓のたびに付け替えられ、最終の形が「重臣ヨリ献灯姓名録」に見る参道となりました。
五代までの参道復元と六代築造時の変更箇所
図2 五代までの参道復元と六代築造時の変更箇所
 
十代墓、十一代墓追墓の際には、寄進燈籠数が多かったため置ききれず、利次墓参道両側の土塁を一部削り取って敷地を広げ、燈籠置場を確保したとみられます。
(古川)